#14 わたしとすけっち

 五体満足。その言葉が示すものを人々は様々な意味で解釈し、利用しているが、本当の意味で五体満足な人間などただの一人も存在していない。
 たとえば頭部、右腕部、左腕部、右脚、左脚、そのすべてが正常でかつ特定疾患もない状態を五体満足だとし、健常だと判断するのは性急で浅はかだ。
 つまり、体を一つ一つのパーツの集合体と捉えている時点で思考を停止し、答を出そうとするのは証明途中の計算法則を投げ出したのとそう変わらない。体は 物質的には数種類の元素の集合体だとしても、その本質が持つ性格や行動原理となる“こころ”が確かに存在し、証明内に内包されていなければならないから だ。
 すなわち、生命を五体一心で捉えたとすると、そこに満足をつけられる人間は存在し得ない。自分自身に満足し、完璧であると思っている人間は唯愚かなだけ か、すでに人間であることを放棄した者である。そのどちらでもない存在があるとすれば、それはいわゆる神と呼ばれるものだろう。
 以上により、肉体的に不備がないとされる者でも、精神ないし心に何らかの欠損を抱えて居る場合、それを健常者と呼ぶことは不適切である。と同時に、世間 一般から障害者と呼ばれ、肉体のどこかに異常を抱える者を特別視し、差別することも甚だしく不適切である。
 彼らから見れば私たちも全て何処かが壊れてしまっている障害者に変わりないのだ。私たちも彼らも等しく同じ価値をもつ存在として認めあうには、特別な呼 称など使わずとも、ただ一人の“ひと”であると自覚することである。
 そもそも人は生を受けた瞬間から何かを失い、生きていく過程で更に生まれもったものを消失、もしくは自ら捨て去っていく。新しい物を手に入れるために は、生まれもった純粋さや人格などは不必要だと判断されるケースが多い。そうすることによって欠落した部分を何かで代替(オルタナティブ)していくのだか ら、完成することなど永久に起こり得ないのだ。
 人は自らの限られた生命の中で何らかの生きがいを見出し未完成であったとしてもその段階で満足することが人としての最大の贅沢であり、尽きることのない 欲望に終止符を打つべき時に他ならない。

作者不詳 「第五の季節」 第四章"オルタナティブ"

*

 放課後。俺は保健室に預けたままの猫を引き取りに行くことを理由にして、あの得体の知れない少女に会わずに逃げだそうと考えていたが、楽弥が余計な気を 利かせたせいで、計画は実行するよりも早く空中分解した。
 なので今は仕方なく、如月に連れられて校庭の隅にあるうさぎ小屋に向かっている。楽弥もこの気の進まない任務とやらから逃れたくて先手を打ったに決まっている。俺が気づいた時には電話で保険医にアポイントまで取っていたというのだから、抜け目がない。
 校庭には学生らしく部活動に専念している学生が大勢いた。その誰もが使用中の校庭のド真中を最短距離で横切ろうとしている俺たちを見て目を細め、あるい は一目散に逃げ出した。よほど評判の悪い人間が同行しているらしい。まず、間違いなく如月だろう。
「しかし、この高校には十組、十一組が存在するのだな。普通はあったとしても義務教育の中学生までで、高校以降の教育は養護学校で行うものだと思っていた。どうやら、認識を改めなければならないようだが」
「そんなクラスがあることすら俺たちは知らなかったよ」
 如月は入学資料に書いてあったぞと、鞄の中から紙の束を取り出すが、元々全く目を通す気などない。どうして都合二年もこの高校に通っている俺よりも如月の方がこの高校に詳しいというのだ
  そんなやり取りをしている内に、校庭の隅のうさぎ小屋まで辿り着いた。辺りは日当たりも悪く、人気もない。愛玩動物を飼育するための檻というよりも、ゾ ンビ蠢く廃墟といった方がふさわしいような廃れようだった。大体、小学生じゃあるまいし、なぜうさぎ小屋なんてものが校内にあるのかそもそも不思議でなら ない。
「放課後はほぼ毎日ここに来ていると聞いたのだが……いないな」
 件の少女、卯月うさの姿はおろか、人の気配さえ感じない。本当にここにいるのかと疑問に思い、小屋の周りをくるくると二週ほど回ってみる。小屋の裏には 放置されたボールや伸び放題の雑草、怪しげなキノコなどが群生しているだけだ。当然、最初に見た入口の窓、うさぎと人間を隔てる金網の前にもいない。とな ると……まさかとは思ったが、他に隠れられるとしたら、一か所しかなかった。
「うさぎの中だ。入るぞ」
「ちょっ……どういうことだ、聖」
 どうしたもこうしたも単純なことだ。口で言うよりも実際に行って見たほうが早い。俺は不用心に鍵の付けられていないドアを開き、薄暗い小屋の中に入る。 続いて如月も恐る恐るついて来る。
 小屋の構造上、実際にうさぎと触れ合うためには人間用のドアの後に、掃除用具などが置いてある場所からさらに、うさぎ用の入り口を開けなければならない。思ったとおり、金網の一部が開閉可能な作りになっていた。鍵はドアの時と同じように開け放たれている。
「うぁ、うさぎがたくさん」
 如月が驚くのも無理は無い。せいぜい数匹かと思っていたうさぎだったが、見る限り十匹以上はゆうにいた。それがなぜか部屋の隅で山のように盛り重なって いるのだから、少なくとも二〜三十匹はいるように見える。
「卯月うさはいるか?」
 狭過ぎるうさぎ専用通路を通ることは初めから考えず、金網越しに呼び掛ける。返事がない代わりに急に現れた俺に驚いたうさぎたちが逆側の部屋の隅に さーっと跳び去って行った。ついさっきまで、白い山があった所に両手で顔を覆った卯月が小さく縮こまっているのをようやく見つける。
「まさか、そんなところにいるとはな。うさぎに喰われているのかと思ったぞ」
 如月は冗談を言わないから本気でそう思ったのだろう。しかし、うさぎは草食だ。人間は食べない。
「卯月うさ。話があるから出てきてくれ」
 二度呼び掛けたが卯月は何も答えず、そのまま両手で顔を覆っているだけだった。何度か首を横に振っていることから、聞こえていないわけではないようだ。
「出て来る気がないなら、こっちから行くぞ。聖、鞄を預かってくれ」
 如月はそういうと、俺に鞄を押しつけて、腕まくりし始めた。確かに如月ならこの穴を通り抜けられそうだが、そこまでする必要があるのか。呆れた使命感 だ。
 膝をつきながらもするするとうさぎたちの方へ潜り込んでいく如月。半分ほど身体が通り抜けたときに、如月が振り向いて、言った。
「覗くなよ」
 覗くも何も興味なんてない。俺はさっさと如月に入るように言い、心配性の如月のために、それ自体掃除が必要な掃除用具箱を眺めていた。
「よし、もういいぞ。卯月うさ。返事くらいしたらどうだ? 別に危害を加えるつもりはない。話がしたいだけだ」
 如月は胸を張って言う。更生してやるなどといきめいていたが、以外にも優しげな言葉をかけている。それに気づいたのか、卯月もほんの少しだけ手を動かし て如月のことを見た。怯えた眼差しで、警戒心も解けてはいないようだったが、さっきよりは幾分心を開いてくれたのだろうか。人間というよりもまるでうさぎ みたいだ。やっと話を聞いてくれる姿勢になったのかと思ったが、俺と目があった瞬間にまたさっきの状態に逆戻りしてしまう。
「おい、聖。嫌われてるみたいだぞ。スマイルだ。スマイル」
 そんなにしかめっ面をしていたのか。確かに俺を見て顔を隠した気がする。だが、いきなり笑いだしたりしたら、それはそれで不気味なのではないだろうか。
 どうやら俺が問題のようなので外に出ようとしたところで、誰かに肩を叩かれた。慌てて振り向くと俺と同じくらいの身長の男が背中越しに現れていた。
「誰だ?」
 気配も何もないまま現れた男を警戒しながら、問いかける。男は胸元に手をやり、無言で何かを取り出そうとしていた。背こそ高い方だが、体格は痩せ型で文科系な感じがする。後れを取ることはないと思うが、今は如月もいるので注意は必要だった。
 いつでも武器を奪い取れるよう警戒し、男のことを見張る。男はごく自然な動作で何か細長い物を取り出した。武器かと思ったそれは、ただの文房具。それも 殺傷力は最低の部類であろう筆ペンだった。
「筆ペン?」
 俺と同じ制服にいくつもの缶バッチを付けている男は、後ろ手に持っていたらしいスケッチブックを取り出して、おもむろにまだ何も書かれていないページを 見せる。そしてそこに筆ペンで何かを書き始めた。素人目に分かるほどの達筆で描かれた文章はこうだ。
『僕は文月(ふみつき)イルカ。人に尋ねる前に 自分から名乗ったらどうだ?』
 印刷したかのような綺麗な筆跡に対して、書かれた文章は皮肉たっぷりだ。俺はぶっきらぼうに名乗り、質問を変えて何者だと聞き直す。声帯の代わりに動く のはまたもや指先である。
『十一組の生徒。貴様らこそ、卯月に何の用だ?』




目次 #15