#15 わたしといるか
 突如現れた文月と名乗る男は俺の問いかけに何故か筆談で答える。卯月に何の用だと言われても、俺自身全くと言って良いほど用が無かったので答えずにいる と、ついさっきまで縮こまっていた卯月が、目にもとまらぬ素早い動きで文月に抱きついた。いや、どちらかというと身長差から、足にしがみついたといった方 が正しいかも知れない。
『うづき、なにかおかしなことされなかったか?』
 こくこくと何度も頷く卯月だったが、俺には何のことだか全く分からずにただその様子を見守る。うさぎ小屋に取り残された如月も急なことにキョトンとしていたが、すぐに我に返った。
「誰だ、お前! 私は卯月うさと話をしに来た者だ」
 文月は相変わらず言葉を発せず、筆ペンをスケッチブックに走らせる。
『僕は一度名乗った。貴女こそ誰だ。卯月は誰とも話したりしない。早く家に帰れ』
 変わらない達筆だったが、速筆だったからか少しだけ字が荒れ、怒っているような字体に見える。俺は如月に文月という男だと伝え、ついでに文月に対してあ のうさぎ小屋にいる女が如月だとも伝える。如月は他を寄せ付けない言い草が癇に障ったのか、わずかに怒りを込めた口調で言った。
「私は任務で卯月うさに会いに来ているのだ。何らかの進展があるまでは帰らない!」
 それに俺も付き合わされるのだから、たまったものではない。出来ればすぐに家に帰りたかったが、如月の様子を見ると返してくれそうにない。
 俺がうんざりした顔を見せると、文月が既に書くところの無くなったページをめくり、新しいページに筆ペンで何か書きこむ。俺に突きつけられたことから察するに、俺宛てらしい。
『霜月、卯月が貴様に脅えている。何をしたか答えろ』
 場合によっては殺すと俺の脳内補完で書き加える。奇妙なやり取りだったが、ここは自分に非も無いわけだし、正直に答えるしかない
「俺は何もしていない。そこの女から子猫を手渡されただけだ」
 それを聞いた文月はすぐに『ありえない』と書き加えて、驚いた顔を見せる。確かにあり得ないことだが、文月が動揺したのはもっと他の理由からのようだ。
 文月は何を思ったのかスケッチブックと鉛筆を卯月に手渡すと、空いているスペースに卯月が慣れない手つきで何か書き始める。文字ではなく、どうやら絵のようだ。初めは子供の落書きのように見えたが、鉛筆が動き、線が増えていくにつれて原型が分かってくる。
「これは、狼?」
 卯月が刻々と首をふる。凶悪そうな目つきに鋭い牙と爪。黒い尻尾はほとんど一筆書きとは思えないほど特徴をとらえていて、直感的にそう分かるような絵だった。その絵の下に矢印を付け、文月が何かを書き込む。
『卯月は人の心の形が見える。霜月、貴様は狼だそうだ』
 意味がわからない。完全に俺の理解の範疇を超えている。何が言いたいんだこいつらは。
 意味不明な宣告に俺が無言でいると、文月が新しいページにさらに何かを書き込み始める。文月は中々の速筆だったが、それでもしゃべるよりは遅く、理解するまでに時間がかかる。
「何か言いたいことがあるなら、口で言えよ。イライラする」
 しかし、文月の手は止まらず、かえって文章量が増えていた。仕方なく読み上げることにする。
「貴様が怖かったから、猫を渡して逃げたらしい。二度と近寄るなケダモノが。僕だって好きで筆談しているわけじゃない。声帯の異常で話すことができないか らこうしてる……そうなのか。そりゃ、仕方ないな。二度と近寄らないようにしたいのはやまやまなんだが、そうすると如月が烈火の如く怒り狂うんだよ。別に 危害を加えたりするつもりはないから、大目に見てくれないか?」
 最大限譲歩して言ったつもりだ。俺だってこれ以上厄介事に首を突っ込む気はないし、如月がそれでいいというのなら、この一件からは潔く身を引きたいとも考えていた。
 だが、その願望も如月本人の一言で粉々に砕け散る。
「イルカ。お前は引っ込んでいろ。話の邪魔だ」
「おい、如月……」
 慌てて止めに入っても時すでに遅し。スケッチブックの真っ白いページが開かれ、目にもとまらぬ速筆で描かれる文字に黒く塗りつぶされていく。瞬く間に埋め尽くされたページには敵意剥き出しの長文が書き出されていた。
『あなた方にどんな任務があろうと、何を言おうとも僕たちには関係のないことだ。あなた方健常者と話すことなど何も無い。これ以上僕らに関わるのなら敵と みなす。言葉も人間らしさも奪われた卯月をこれ以上傷つけるというのなら、必ず死をもって償わせる。わかったら消えろ。これは忠告じゃない。警告だ』
 ほとんど脅迫文に近いそれを読み終えた如月はうーんと唸り、頭を抱えた。猿でもわかる拒絶。俺たちと彼らには埋められない深い溝があると嫌でもわからされる文章だ。流石に如月もこれ以上は突っ張れない。代わって、俺が一言だけ皮肉を放り投げる。
「言葉はあるじゃないか。そいつ、俺に『ねこ』って言ったぞ」
 負け惜しみのつもりで言った一言だったが、信じられないとでも言うように文月が顔を歪めた。こういうとき文月が咄嗟に動かすのは口ではなくペンだ。
『それは本当か!? 僕は今まで卯月の声を聞いたことがない』
 ペンは震え、文字はわずかに歪んでいたが、間違いなくそう書いてあった。俺は文月からペンを取り上げ、隣に「本当だ」と書き殴る。軽い仕返しのつもりだったのに、文月は命よりも大事なものを奪われたかのような顔で俺を見たので、ばつが悪くなり筆ペンを返してやる。
 文月はほっと胸をなでおろし、さっきとは見違えるほどに優しい筆遣いで俺に宛てた文章をしたためた。
『先の非礼を謝る。いつもの興味本位で近付いてくる輩だと思ったんだ。よかったら、またここに来てくれないか? 僕は卯月に言葉を取り戻してやりたいんだ。彼女が警戒しないのは僕くらいだ。きっと協力できると思う。頼む』
「わかった。喋れるようになるまで、毎日来るぞ。次は楽弥もつれてな」
 いつの間にかこちら側に這い出してきていた如月が勝手に面倒を引き受ける。更生するんじゃなかったのかよ。
 文月は警戒に筆を操り、ページを一枚丸々使って大きく「ありがとう」と書いた。相変わらず俺の意思は無視されたままで、ことが勝手に進む。かくして俺の放課後はうさぎ女とスケッチブック男に振り回されることになった。
*
 帰り道。楽弥が用事を思い出したと保健室から戻ってこなかったので、結果的に如月と二人きりになる。本人は気を利かせたつもりなのかもしれないが、俺と しては負担が倍になるので素直に喜べない。なぜかというと、少しでも気にならない人間がいると、何も考えずに如月が突っ走るからだ。
 だから俺は危険な人物が如月の視界に入らないように、常に意識を張り巡らさなければならない。失敗した場合、家帰る時間が十五分から一時間前後遅くなることになる。だがしかし、今日に限って要注意人物と出会ってしまうことはなかった。
 無言で歩くのも慣れたものだったが、今日は珍しく如月から話し始める。
「聖。今日は助かったぞ……ありがと」
 最後の四文字は消え入りそうなほど小さく。ぎこちなくはあったけれど、筆談よりはずっとましで、どこか安心する。
「こんなつもりじゃなかったんだが、面倒なことになったな」
 夕焼けがビルの窓に反射して赤く輝いている。如月の頬もなぜか赤い。
「お前がいなかったら、初日で任務失敗だった。なんだか、最近助けられてばっかりだな」
 如月は目を合わせずに俺の半歩前を歩く。失敗すれば良かったとは言えず、代わりの言葉を探そうとするも上手い返しが見つからない。
 そうこうしている内に、すぐ横を仲良さげなカップルが談笑しながら通過する。そこで如月が急に足を止めた。まさか今のカップルが要注意人物だったのかと思い、振り返るが、どこにも問題があるようには見えなかった。
「聖?」
 突然呼びかけられ、向き直ると目の前に如月が立っていた。
「どうか、したのか?」
 呼ぶだけ読んで何も言いださない如月に違和感を覚えつつも、間近で如月の顔を見る。何か言葉を探しているようでいて、それともまた違うような微妙な表情だった。如月が何も言わずゆっくりと手を差し出す。
「その、手を……」
 如月がそこまで行ったところで、ぽつりと雨粒が俺の肩を濡らした。ひとしずくが二つに、それが一秒ごとに倍々計算であっと言う間に本降りとなった。夕立ちだった。俺は何も言わずに如月の手を取り、駆け出す。
「気象を読むなんてさすがだな」
「これはちが……」
 俺の冗談を真に受ける如月の手を引きながら、走る。こうするのは二度目だ。如月は雨に振られているのにどこか嬉しそうで、離れてしまわぬように俺の手を強く握り返した。

 走る俺たちのすぐ傍をビニール傘を持っているのに、なぜか雨に濡れたままにしている男が通り過ぎたが、それはまた後の話。

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