#13 わたしとあゆ
 何も起こるはずの無かった朝、交通事故すれすれの極限状態を無傷で切り抜けた少女から、足を負傷した子猫を手渡された。それを聞いた楽弥はそれなんてエロゲと訳のわからない言葉で茶化し、猫を撫でてにゃあと鳴いて見せた。
 俺は新たなトラブルの幕開けなのではないかと予感し、無垢な猫をじっと見る。
「泣きたいのは俺の方だ。この猫、これからどうすればいいんだ?」
 さすがの俺でも授業中に猫を抱いているわけにはいかないし、授業中に鳴かれでもしたらすごく困る。周りの奴らは俺が捨て猫を虐待するために連れてきたなどと根も葉もない噂を立てているし、楽弥の答えにも期待はできないが、一人言のつもりで言う。
「うーん、ほっといても自然界の起きては厳しいからね。足も怪我してるみたいだし、とりあえず保健室まで行って預かってもらうのはどう?」
「そうするか」
 俺は慣れない手つきで猫を抱き抱え、立ち上がる。ねこは不安そうに震えていたが、不安なのは俺も同じだった。あの少女が何者か、どうすればあの少女に関わらなくて済むのかとそればかり考えている。
「その女の子だけど、僕も知らないよ。下級生かもね、もしくはあすかちゃんみたいに転校生とか。それにしてもこんなに可愛いものが似合わないのは聖ちゃんくらいだと思うよ」
「ほっといてくれ。多分クラスメイトどもにも非常食かなんかだと思われているだろうから」
 冗談だと思ったのか笑う楽弥を背に保健室へと急ぐ。最近、校内で目立ったこともしていないから、保健室に訪れるのも久し振りだ。保健室には何度もお世話になっているので、二階の教室からでもほぼ最短ルートでたどり着けた。
 ドアに担当教諭の名前と今いるということを示す札がかかっているのを確認してから、ドアを軽くノックすると小さな声で返事があった。
「久々じゃない。今度はどこを怪我した……ってあら可愛い」
 出迎えたのは白衣の保険医、設楽先生だった。この学校では三人の保険医が担当しており、曜日ごとの交代制だ。この先生が来るのは週に二回だから土日を除いて四割の確率のはずだが、俺が行くとかなりの高確率でこの先生がいる。他の教師とは違い、臆せず俺に説教するので如月の次くらいに厄介な相手だった。
「怪我しているのはこの猫なんですが、ちょっと見てもらえますか?」
 女医は分かったといや否や、てきぱきと包帯や消毒液、ガーゼなどを用意し始める。どう見ても動物は専門外だと思ったが、大した怪我ではないこともあってか、慣れた手つきで治療し始める。
「ほんとは生物の月読先生の方がこういうの詳しいのかもしれないけど、改造とかされたらかわいそうだからね。傷は浅いから二、三日もすれば歩けるようになると思うよ。これ霜月君の猫?」
「いえ、知らない女子から無理矢理手渡されたんです」
 隅に置けないやつなんですと楽弥が付け加える。消毒液が傷に染みて嫌がる猫をなだめながら、先生が言った。
「それってどんな子だった?」
 何か思い当たる節でもあるのか。俺たちよりも幅広い学年の生徒を相手している先生だけに、楽弥のデータベースにないような女子の情報も持っている可能性も大いにある。
 説明下手の俺に代わり、楽弥が説明を買って出る。楽弥も俺とは別の理由でよく保健室を利用していて、先生とも面識があるのでそちらに任せることにした。
「童顔でオレンジ色がかった髪をうさぎの髪飾りでツインテールにしてる幼女です。体形はほとんど小学生でランドセルを背負ってるらしく、聖ちゃんのストライクゾーンらしいです。あすかちゃんという嫁がいながらなんと不埒な……ね、鮎ちゃんもそう思うでしょ?」
 楽弥らしい脚色の加えられた部分を否定しつつ、先生の反応を待つ。丁寧に包帯を巻き終えた先生は下の名前で呼ばれたことには触れずに、笑って言った。
「霜月君の性癖についてはノーコメントだけど、その子にはすごく心当たりがあるわ。まず間違いなく十組の卯月うさちゃんよ。彼女、変わってるから保険医の中では有名人なの」
 十組? うちの学校は八組までしかないはずだが、そんなクラスがあったのか。嘘をついているようにも見えないし、その必要もあるとは思えない。
「その卯月って言うのは何のために保健室に出入りしているのか?」
 それを聞いた先生は顔を伏せ、考えているかのように猫を撫でる。聞いてはいけない質問だったのだろうか。
 ゆっくりと長めに間をおいてから、先生が話し始めた。
「本当は私たち、こういうこと言っちゃいけないと思うんだけど。彼女、少し障害があるの。肉体的にはほとんど何もないんだけど、脳、もしくは心にね。ただ生きているだけなら問題ないんだけど、社会生活を営むのは少し難しいわ」
「そう、なんですか」
 言葉が通じないように感じられたのは、そう言うことだったのか。健常者の俺にとって障害なんて言葉はどこか遠い世界のことだと思っていたが、それは健常者の手によって巧妙に隠されているだけなんだと気付かされる。
 あるいは無関心を装い、無意識のうちに無視している。それは社会不適合者として、包み隠さず言えば社会のお荷物として差別され、ひた隠しにされているのだ。現に俺も情報通の楽弥もその存在を知らなかったように。
「動物が好きで取ってもよい子なんだけど、時々自分を抑えられなくなるらしいの。だから彼女はいつもこれをもらいに来るわ」
 そう言って先生から見せられたのは小さなポチ袋に入れられたカプセル。青と白で色分けされたそれは風邪薬や鎮痛剤の類ではないことを話の流れから察する。
 先生は俺たちがそれを見たのを確認すると、誰にも言っちゃだめと念を押し、すぐに厳重な箱にカプセルをしまった。
「躁鬱病の、主に躁の患者さんに処方される鎮静剤よ。普通の人には害があるから、薬欲しさに来られると困るの。絶対内緒にしてね。お願い」
 俺たちは当然ごとく承諾する。まさかダウナー系の薬が保健室で処方されているとは思わなかったが、なるほど刺激を求めている学生たちにとってそれは一種の麻薬でしかなかった。だが、俺や如月にとっては少し必要な気がしないでもない。
 俺たちはその後いくつか言葉を交わし、猫を預かってもらい、授業の鐘が鳴る前に保健室を後にした。
*
 俺の貴重な自由時間はほぼ全て退屈なだけの授業時間に浪費させられ、昼休みなってからほどなく如月が来た。転校初日こそ、その容姿からちやほやされた如月だったが、俺たちとつるんでいるせいか、それともその性格のせいなのかはわからないが、今は専ら俺たちだけと話すようになっていた。本人もそういうこと には慣れているらしく、気にしている様子もない。
「おはよう、聖。楽弥。私のいない間に何か問題を起こしてないだろうな」
 俺と楽弥は揃って首を横に振り、真面目にやっていたと嘘をつく。俺は授業を聞き流しながら、卯月という少女が何者か考えていたし、楽弥に関してはほぼ全部寝ていた。ある意味、間違っても如月がいない時間を満喫していたといえるが口には出せない。
 如月はいぶかしんでいたが、何故か今日はしつこく聞かずに俺と自分の分の弁当を取り出して楽弥の机の上に置く。機嫌でも良いのだろうか、今にも鼻歌でも歌いだしそうな感じで不気味だ。俺が黙って箸を手に取ると急に如月がクラス全員に聞こえるほどの大声で言った。
「お前たち、喜べ。私にこの冬海高校から初めて依頼があった」
「喜べって……それ、俺たちも巻き込むのか?」
「当然だ」
 当然じゃないだろと思ったとしても、如月には何を言っても無駄なのは二人とも知っていた。楽弥も初めこそ喜んだが、時間が経つにつれ、ようやく俺の苦悩が分かってきたらしく、黙って購買のパンをほうばっている。
「大体、依頼って何なんだよ。うちの高校に問題なんて俺たちくらいだぞ」
「あ、わかった。僕たちを見張るって依頼でしょ。そんなの無駄だから止めた方がいいって」
 問題児二人が自ら口にする。他にも問題児や不良と呼ばれる懐かしい集団もいるにはいるが、訳あって以前と比べて激減していた。故にほとんど平和と言ってよいこの高校から如月に何かを頼んだりするとは思えなかった。
「残念ながらお前たちはもう見張っている。依頼の内容は『十組の卯月うさとコミュニケーションを取る』だ! なんでもかなりの問題児らしいから、私たちが更生しなければならん」
 俺はあまりにもピンポイントで曖昧な依頼内容に箸を取り落とす。楽弥に至っては飲んでいた水で盛大に蒸せていた。その様子を見た如月は不思議そうに俺たちを見やり、何か思いついたように言った。
「お前たち、卯月うさと面識があるようだな。今日の放課後、早速会いに行くぞ。場所は校庭の隅にあるうさぎ小屋だ。時間厳守で頼むぞ」
 気になってはいたが、こんなにすぐに会うことになろうとは。俺たちはげんなりとしながらも逆らう気力もなく、いやいや了承した。

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