#12 わたしとねこ
 新緑が陽光を受け、輝きながらわずかに揺れる。太陽は日に日に高さを増し、逆に短くなったシャツから露わになった肌をじわじわと照り付け始めていた。季節は初夏を迎えていた。朝野心地よい日差しを受けながら、澄んだ空気を肺に送り込む。
 俺の生活リズムはとある一人の女のせいで、すっかり朝型になってしまっていた。以前の遅刻常習者として名を馳せていたころの面影は最早微塵も感じられない。睡眠時間はともかく、起床時間については厳しく監視されているのだから、当然だろう。
 あの一件から、俺は如月と登校することを義務付けられていた。あらゆる場面において規制され、見張られ、説教される生活を強制されていた俺だったが、今日に限り珍しく平穏を噛みしめていた。如月が前の高校の引き継ぎか何かで不在なのだ。久々の自由は普段は気付かないような些細な変化をも、感慨深く見ることができるような気にさせる。
 ここ最近はテロリストもなりを潜めているらしく、ニュースの話題や新聞の一面を賑わすことはなく、トラブルメーカーもオフだ。何事も起こるはずがない。そう思っていた矢先の出来事だった。
 通学する生徒のほとんどが通る交差点。別名、魔の交差点と呼ばれる横断歩道があり、朝のホームルームギリギリに登校する生徒にとって鬼門となる場所で事件は起こった。
 一人の女生徒が突然車道に飛び出したのだった。時刻はまだチャイムまで余裕があり、通勤時間と重なっているので、車通りも多いというのに。
 案の常女生徒は車にはねられ、鮮血を飛び散らしながら数十メートル先まで吹き飛ばされた。よく見てはいなかったが、俺よりも小柄で如月くらいしかなかった気がするので、恐らくはまあ即死だろう。
 ブレーキ音とともに慌てて降りてくる運転手。魔の交差点の被害者がまた増えてしまった。俺は携帯を取り出し、しかるべき場所に連絡しようとボタンを押す。警察か救急車か迷ったが、念のために救急車にコールすることにした。
 119とボタンを押し、続けて通話ボタンを押す直前で何者かに手を掴まれた。スーツにネクタイ、メガネといかにもサラリーマン風の男が俺の腕にしがみついていた。その表情は明らかに正常な判断ができておらず、何かにひどく恐怖しているようだった。
「何するんですか。警察呼びますよ」
 落ち着き払った様子で冷たく跳ねのける。サラリーマンは尻餅をつきながらも手を伸ばして待ってくれと言っていた。往生際の悪い奴だと思い、今はいない少女の良く言っていたことをそのまま復唱する。
「犯した罪を認め、償うのは人として当然の義務だ……といつも連れに言われてます。悪しからず」
「ちょっ、ちょっと待ってくれ! 私はその、何もやってないんだ。急に女子高生が飛び出してきてブレーキを踏んだら、もうそこには誰もいなかったんだ!」
 あまりに必死な言い訳に苦笑することもせず、車のフロント部分を見る。傷一つない白いボディーは日の光を反射しているだけで、血や凹みなどもない。おかしいなと思い、少しだけ思い起こして見ると、奇妙なことに気がついた。俺はブレーキ音と少女が消えるところは見聞きしたが、実際に轢かれた瞬間を見たわけではなく、その際に衝突音もしなかったように思われた。
「じゃあ、あの女はどこに行ったんだ?」
 俺はおもむろに携帯をポケットにしまい、クラクションのオーケストラの中を悠然と進む。信号機はいつの間にか青になっていたので、不法駐車車両が通行の妨げとなっている以外は特に障害はない。
 横断歩道の白線をまたぎながら、行き先の歩道を注意深く見てみると、そこにはさっき轢殺されたと思っていた少女が何かを抱えて立っていた。
 俺は思わず走り寄り、そのまま声をかける。
「お前、大丈夫か。怪我はないか?」
 一見して無傷の少女を気遣う俺はどれほど滑稽に映ってだろう。少女はくすりとも笑わず、俺のことを見ている。何処にでもいそうな少し童顔な少女は、年齢にそぐわないかわいらしい兎の髪飾りで髪を二つに結い分けており、俺と同じ高校の制服に、何故かランドセルを背負っていた。あどけないというよりも単に幼いといった方が適切な気がする。
「お前、何で車道に飛び出したりしたんだよ。死んだかと思ったぞ」
 少女は聞こえているのかいないのか。腕の中の何かを見つけているだけで何も答えない。言葉が通じないのかと思った直後、少女が俺に向かって何かを差し出して、今になって言葉を思い出したかのように大声で言った。
「ねこ!」
 その一言だけだった。それだけを言うと少女はツインテールを揺らしながら、風のように走り去った。無理矢理手渡されたそれは俺の手の中にわずかに震えて、小さく「にゃあ」と鳴いた。



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