#07.9 少女VS夜
 食後、気まずい状態が続くかと思ったが、一日の疲れのせいか如月が眠そうにし始めた。具体的にいえば、言葉が途中で止まったり、目をこすったりと典型的なものだ。時間としてはまだ22時くらいだが、聞いたところによるといつもは授業の予習復習、他にも将来の資格のための勉強などに加えて彼女の傍迷惑なライフワークもある。
 しかし、確かに今日は色々とありすぎた。学校にも行けてないから復習のしようもないし、先に寝るように促す。俺はといえば俺の日課である筋トレを始めることにした。本当は服も脱ぎたい気分だが、如月の前ということもあって、完全に寝付くまでは自重することにする。
 如月も大人しくなってきたので、ダンベルを持ち上げながら今日のことを思い出す。一体、如月は何者なのか。今日のことはニュースになっているのかどうか、 肩の傷はどうしたものかななどと、とりとめのないことを思い浮かべる。どれも漠然としていて確認の取りようがなかったり、人には聞けないようなことばかり だ。
 無言で考えている内に、如月が寝息を立て始める。安らかな寝顔に一瞬腕が止まるが、すぐに日課に戻る。距離が近いためか、淡い息遣いや眉間にシワの寄ってないと普通の女子に見える。それも外見だけで言えば相当可憐な部類に入るだろう。性格がもっと大人しくしていれば、自然と学校のアイドルへとのし上が り、無数の男が群がってくるに違いない。そう言った情事に俺はまるで興味がないが。
 ダンベルのノルマを終えて、腹筋へと移行する。専用のマットでも欲しいが、そんなものはないので、直接床に寝そべってやる。如月も寝静まったようだし、 シャツを脱ぐ。適当に巻いていた包帯に血が滲んでいたが、無視してやる。銃の怪我ではあるがかすり傷だし、こんな包帯煩わしいだけだ。そもそも重傷だったとしても銃で撃たれた傷など、医者はおろか親にすら見られるわけにはいかない。
 腹筋に続けて背筋に移ろうとしたところで、部屋の照明がつけっぱなしだったことに気付く。先に寝ている如月のことを考えて、大きな照明だけを落とし、本来 の目的を全く果たしてない勉強机のライトをつける。
 程よい汗と疲労感でベッドに寝そべりたくなるが、今は奇妙な居候にベッドを独占されているので使えな い。自分の部屋だと言うのになんともやるせない気分だ。いっそ夜風の中、ロードワークでもしてきたい気分だが、そうもいかない。
 気晴らしにサンドバッグでもあればと思っても、そんなボクサーよろしくなものが普通の学生の部屋にある訳がない。昔ジムに誘われたこともあったが、興味がなかったし、拘束されたくもなかっ た。ないこと尽くめだ。
 やることが無くなった俺は勉強机に腰掛け、小さくため息をつく。女一人と一晩ともにするだけでここまで面倒になるとは思わなかった。俺の平穏がここまで脅かされるとはつくづく迷惑な生物だ。
 断続的に如月の静かな寝息だけが聞こえて来る部屋の中で、奇妙な音が混じる。携帯でも鳴っているのかと思ったが、どうやら音の主は如月のようだった。寝がえりでも打ったのか、かけていた布団がずれていた。放って置いてもよかったが、気づいてしまったので仕方なく直しに行く。
 男用の布団で俺にはぴったりのサイズだったが、如月には半分近く余っていた。随分と小さい身体だなと思いながらも、肩の所まで布団をかけ直してやる。その時に、寝息だけを立てていた如月の表情がわずかに動いた。
「お父さん……」
 いつものようなやかましい声ではなく、弱々しい声で誰にともなく呟く。夢でも見てるのだろうか、割とはっきり聞こえた寝言だった。父親の夢か……そう言えば、さっきアドレス交換をしてやった時に、如月のメモリには父親の一つしかアドレスがなかった。
 そういえば、楽弥が言ってたっけ。如月は警視総監の娘だと。どのような育て方をしたら、こんな性格に育ったのだろうかと思いを馳せる。間近で如月の顔を見たのは初めてではなかったが、胸の奥の方に違和感を感じた。もう一度 だけ、如月の口が動く。
「ごめんなさい……」
 誰に向かって謝ったのか。考えなくても見当は付く。如月の父親に対してに違いない。如月の眼尻からほんの少しだけ透明な液体が流れる。何を思っての涙かはわからない。しかし、何故だか胸がざわつき、如月から眼を逸らした。
「父親か」
 一人ごち、祖母が亡くなった時のことを想い出す。昔は長期休暇があるたびに祖母の住む田舎に言っていた。祖母が亡くなったのは小学校高学年で周りから完 全に孤立した頃のことだ。そのころにはすでに父親は祖母から勘当されていたらしい。
 理由はよく聞いていないが、父親の仕事の関係だった気がする。祖母は父のことを嫌い、俺によく愚痴をこぼしていたのを覚えている。お前の父親は人間じゃない。人の道をはずれているなどと、本当に自分の息子なのかと思うほどに 父のことを悪く言っていた。
 現に父親は祖母が無くなった直後、葬式にも行かずに祖母の家や土地などの財産を即刻処分し、次の事業の資金に充てた。子供自分でその時はよくわからなかったが、おばあちゃん子だった俺は父親に猛反抗した。
 まだ幼かった俺でさえもその行為は非人道的な所業に思えたのだから仕方ない。祖母のようには言わなかったが、そこから家族の折り合いは極めて悪いものになった気がする。あんな父親に追従する母親も同じだ。あの二人は自分とは違う何か不気味な生物に感じたほどだ。
 そんな父親を思って涙を流すことなどあり得ない。目の前で俺をかばって惨殺されようが正直何とも思わないだろう。それほどまでに薄く、脆弱な――到底絆など とは呼べないような関係だからだ。今一緒に生活しているのも、経済的、社会的に自立できない身分だから仕方なくというのが本当のところだろうと自分でも思ってる。
 もし、この家が俺個人の物で、職も金もあれば如月と……いや、何でこいつのことがでてくるんだ。一人で暮らすこともできるのだが、一時期は本気で考えた一人暮らしも、中卒ではほぼ不可能だと調べれば調べるほどに分かった。それもこれも長期にわたる不況のせいだ。テロリストの考えにも納得できる部分はいくつかある。ただ今回はやり方が気に入らなかっただけで。
 それなのにこいつと来たら。何か複雑な事情があるのか、それとも単なるファザコンなのかどちらにしても、彼女にとっての父親は涙を流すに値する大きな存在なのだろう。そのことが自分でもわからないがたまらなく嫌だった。今までに感じたことのない黒くもやもやとした嫌な感情が心の深いところから湧き出てくる。感 情などとうに亡くしたと思っていたのに、この異常なまでに感情豊かな少女に影響されたのだろうか。
 それ以後も何か喋るかと思い、俺にあてがわれた固いベッドの上で一晩中耳をそばだてていたが、如月は一言も口をきかないまま寝息を立てていた。完全な取り越し苦労鳴きもしたが、如月の涙をこれ以上見なくてすんでよかったとも思う。
*
 朝方、なかなか寝像の悪い如月のベッドを直しに行ったら、突然目を覚ました如月にいきなり顔を張られた。
「いっ、今襲おうとしただろ! ヘンタイバカっ!!」
 一体どういう仕打ちだと抗議したくもなったが、そういえば服を着てなかったことを忘れていた。もちろんそんなつもりじゃないと弁解したが、殴られたにもかかわらず、それほど怒りもわいてこなかった、
 そして、今に至るわけである。かく言う俺はヘンタイにバカがオプションで付いた。朝日も差し、小鳥もさえずり始めた朝六時のことだった。
目次 #8