#07.7 少女VSプライベートスクエア
 飯の件では大いに揉めた。俺は無視してそのまま同じ箸を使うつもりだったが、口に入れる直前で無理やり静止させられた。
「これが俺の箸だ。いいから早く手を退けろ」
 俺だって朝から何も食ってないんだ。如月のせいですっかり冷や飯だが、それでも食べられないわけじゃない。第一、何の問題があるというのだ。
 力尽くで食べようとするが思ったより力が強く、鮭の切り身を掴んでいるということもあって、なかなか箸を口に運べない。ついに諦めて、一度箸を置き、如月の言い分を聞くことにした。気のせいか頬が赤い。
「他に箸はないのか……?」
「今から取りに行ったら怪しいだろうが」
 自分で取った箸ならまだしも、親に手渡された箸だ。それを落としたとしても俺はわざわざ洗いに行くほど潔癖症ではない。
「うぅ、でもそれだと間接……」
「ん、なんだって?」
 言ってる意味が分からず聞き返す。そのせいか、じわじわと如月の頬が紅潮していく。短い時間だが一緒に居て分かったことがある。これは怒りから来るものではないと。
「……だから、キ……」
 意味深な部分で言葉が途切れる。いくら俺でもなんとなくだが言わんとしている事が分かった。
「なら裏箸を使うよ。これで文句ないだろ?」
「最初からそうしろ!」
 相変わらず声の大きいヤツだ。俺は気にすることもなく、特に感想を言うこともなく食事を終える。一体どこまで面倒なんだろうか。
 食後の一服でも、そう思った瞬間にまたもや面倒なことが起こった。
「聖、ちょっといいか」
なぜ、こうも立て続けにと思ったが、生理現象は仕方ない。それともこいつは俺にタバコを吸わせない気なのか?
 俺は灰皿を探すのを止め、次はなんだと答える。
「トイレ。その……二人で一緒に行動する約束だろう?」
「ああ、そうだったな。先に親が来ないか見てくる」
「うん、急いで……」
 もう高校生にもなってトイレの付き添いとは情けない話だが、事情が事情だけに仕方ない。階段に明かりはなく、いつの間にか帰ってきたらしい父と母が何か話しているのが聞こえてきたが、俺の部屋に見知らぬ女子がいるとは気づかれていないようだ。
「大丈夫だ。足音は立てるなよ」
「わかった」
 確認を取り、いそいそとトイレに入る如月。仕方ないとは思うが、一番危険なのが今だ。俺は神経を張り詰めてトイレのすぐ前で親が来ないか見張ることにする。
 いつの間にやら、両親の声は聞こえなくなっていた。父親が風呂にでも入ったのかもしれない。家の中の沈黙。俺がやったのではないパチっという電気をつける音。嫌な予感がした。その直後に階段の電気が灯る。さっきのスイッチ音に続き、二度目のスイッチ音で、だ。
 嫌な予感が当たった。さっきのは一回のトイレのスイッチ音、二度目は階段を上がってくる足音で分かる。考えうる最悪のタイミングで父がトイレに入り、同じくもよおした母が二階のトイレを使おうとしているに違いない。
 階段を上ってくる母親の顔が見える。すぐに目が合う。
「あら、聖。そんなところで何やってるの?」
「いや、別に……」
 上手い言い訳が思いつかない。母親はいぶかしんでいる様だったが、トイレの電気が既についていることに目ざとく気がつく。
「あ、もしかして聖もトイレ? 私も使いたいんだけど、先にいい? 下のはお父さんが入って、うーうー唸ってるから長くなりそうなのよ」
 あのクソ親父はなんて間が悪いんだ。意を決した俺は後ろ手でトイレのドアノブに手をかけ、手探りで鍵を探す。トイレのドアについている鍵は簡易なもので、緊急用にコインや爪などで開けられるようになっている。今のそれこそがまさに緊急事態だった。
「ごめん、俺が先に使う!」
 先に使ってるのは如月だが。あとで何を言われてもいい。今はばれないことの方が重要だ。覚悟を決めて勢いよく、しかも中を覗かれないように必要最小限の動作で回転するようにトイレに入る。
「そんなにピンチだったのかしら?」
 母親が間の抜けたことを言っているが、答えずに後ろ手で鍵をかけた。次にやることは決まってる。何より、弁解よりも先に如月の口を閉じることだ。
「キ……んぐぅ」
 できるだけ如月の姿を見ないようにして、右手で今にも悲鳴を上げそうな口を塞ぐ。何とか間一髪で間に合ったようだ。
 如月は初め暴れていたが、急に何かに気づいたような目をして、慌てて股間を隠す。顔は耳まで真っ赤で、眼尻には薄く涙まで浮かべている。互いの息が掛かりそうなくらいの近距離に加えて、こんなあられもない格好では誰だってそんな反応をするに違いない。しかし、母親が諦めて一回に戻るまではこのままの状態でいなければならなかった。
 気まずい沈黙。ほどなくして、階段を下りる音が聞こえてくる。俺はほっと胸をなでおろし、如月の口から恐る恐る手を離す。顔を逸らして見ないようにしていたが、こんな状態じゃまったく見てないなどとは言えない。見ないように後ろを向いた今でさえも気まずい感じが漂っている。今まさに出ようとしたところ で、後頭部にすすり泣くような如月の声が聞こえてきた。
「……っく、見えたか?」
「悪い、仕方なかった」
「ヘンタイ……っ」
 こんな非常事態であっても俺はヘンタイ呼ばわりされるのか。これなら、いつもみたいに怒鳴られた方がよっぽどましだ、変にしおらしくされると、本当に申し訳なくなってくる。
 とりあえず、そのままそこにいるわけにも行かないので、トイレから自分の部屋に戻る。俺には何の非もないように思えるのだが、如月はそう思わないだろう。このあとで何を言われるのだろうか。想像するだけで陰鬱な気分になってくる。
 如月がいつ帰ってきてもいいように、部屋のドアは少し開けたままにしておく。そういえば、二人一緒に行動するって約束だったな……しかし、どんな顔して会えばいいんだ。会ったところで変態だの、死ねだの罵られるに決まってる。
 だが、やっぱり心配だ。迎えにいくまではいかなくても、さっきと同じく見張りくらいはしよう。別に罵られたところで死ぬわけじゃないし、誠意を持って謝れば許してくれるだろう。そうなれば、善は急げだ。善なのかどうかはきわめて灰色のラインだが。
 ベッドから上半身の力だけで立ち上がり、ドアの前に立つ。ドアノブを掴もうとして、先にドアノブが逃げるようにして引かれていく。親じゃない、この感じは間違いなく。
「如月」
 思わず名前を呼んでしまう。何を思ったのか、如月はドアノブを掴もうと伸ばしたままだった俺の右手を掴む。顔は伏せたままなので表情はうかがい知れない。
「怒ってるのか?」
「怒ってる。でも、それはお前に対してじゃない」
 どういうことだと聞き返すより早く、如月が顔を上げた。泣いてこそいないが、目は若干赤い。
「取り乱して、酷いこと言って悪かった。あれは不可抗力のようなものだ」
「いや、仕方なかったとはいえ、もっといい方法があったかも」
 あの時は思いつかなかったが、下のトイレが空くまで粘る方法も無理すればあったはずだ。しかし、如月は赤い目でクスっと微笑み、言った。
「いいんだ、悪気があったわけじゃないなら。……こんな私でも、今晩一緒にいてくれるか?」
「あ、ああ」
 全てお見通しのようだ。俺の気苦労はまったくの杞憂に終わり、結果的には雨降って地固まるどころか、雷が降って地が固まったようだった。
目次 #7.9