#03 少女VS国家権力
 「都会には夜がない。だから、私たちのような先の短いものは行かないし、行く必要もないのさ」
 ふいに思い出した台詞は、祖母が俺の両親に告げた決別の言葉だった。それ以来、俺は祖母と会っていない。だから、祖母が今どうしているかは全く知らない。

 幼い頃、両親に連れられて里帰りした。見知らぬ土地に友達がいるはずもなく、一人縁側でビルの無い風景を眺めていたとき、一番初めに声をかけてくれたのは祖母だった。
「こんな田舎が珍しいのかね?」
 一人でいるところに突然話しかけられて、言葉が喉につかえた。珍しい……のだろうか。そのときの自分はただ途方に暮れていたような気がした。
「なにも無いように見えるかもしれないね。坊やは都会っ子だから」
 祖母は俺の肩に深くしわが刻まれた手を置き、懐かしむように言った。
「息子の小さい頃にそっくりだよ。あの子は都会へ行き、お前はこちらに帰ってきた」
 幼い自分には祖母が何を言っているかよく分からなかったが、その声色や表情からは俺のことを大事にしてくれているということはわかった。そして、少なくともその言葉に嘘はなかった。
「お前は、あの子のように魂のない人間になってはいけないよ。都会には全てがあるように見えて、本来あるべきものはすべて失われてしまっているから」

*
 時計の針は既に11時過ぎを指しており、閑静な住宅街は明日に備えて寝息を立て始める。しかし、そこに夜はない。草木は眠ったとしても、生活習慣の狂った人間たちは活動をやめない。そして、その狂人たちの中には俺も含まれていた。
 人目を忍んで住宅街の裏道に入る。出来るだけ人目が少なく、サイレンの明かりが届かない場所へ行きたかった。右手には白いブラウスの袖。誰がどう考えても厄介事に巻き込まれていた。
「おい、なぜ逃げるんだ?」
 人気がないと思った場所での場をわきまえない大声が背中に当たる。振り向いた先にいるのは、あの迷惑な女だった。今は黙っていろと無言で睨み、空いた左手を口の前に立てる。女は今にも喰ってかかってきそうな顔をするが、無言を貫く俺に観念したようで小声で言った。
「わかったよ。手が痛いから放してくれ」
 言われて初めて俺が女の手を強く握ってたことに気づく。聞き分けのなさそうなこの女を引っ張ってくために掴みやすかったから握っただけで、他意はない。
 耳を澄ませて観察する限り、辺りにサイレンの音も無ければ、車のエンジン音も聞こえない。どうやら、完全に撒いたようだった。ふっと緊張の糸が切れた瞬間に、肩に何かがポンと乗せられる。振り向くと目と鼻の先にさっきの女がいた。
 お互いに驚いて一歩後ずさるが、女の方は若干顔をうつむかせていた。暗闇と少しの伸ばした黒髪のせいで表情が読めない。
「なぁ、お前……その、助けてくれたのか?」
 ところどころで突っかかる、ぎこちない言葉。あの見知らぬ人に説教をするような、明瞭で耳障りな物言いではなく、なんとなく分相応な話し方だと思った。
「厄介事に巻き込まれたくなかっただけだ」
 吐き捨てるように言う。実際、十分すぎるほどに巻き込まれているのだが。
「だったら自分ひとりで逃げればよかったではないか」
「……確かに」
 女の目には一点の曇りもない。無垢な子供が自分は正しいと正義感から行動している時の表情だ。俺は考えるのも馬鹿らしくなり、適当に肯定する。内心では助けなければよかったと感じていた。
 今にも説教が始まる様な気配がしたが、女は意外にも苦虫を噛み潰したような顔をして黙り込んでいた。
「……不覚だった。ギリギリの間合いだと思ったが、避けきれなかった。普段なら、絶対逃げきれる距離だったのに。正直、助かったぞ」
 果たしてあのままコンビニに残り、事情聴取を受けるのと今の状況ではどちらの選択が正しかったのか、今になって考えると大して変わらないくらい迷惑だと感じていた。
「そうか、どういたしまして。俺の前に二度と現れるなよ」
「ちょっと待て」
 女に後ろ手をつかまれる。背は低いがなかなかの力で引っ張るため、強引に逃げればそのままくっついてきそうな勢いだった。前言撤回する。この女の方が面倒だ。
「確かに世話になった。だが、厄介事とはなんだ。あれは、彼らが近隣住宅に迷惑をかけないように注意していたのだぞ? 彼らは毎晩毎晩この時間になるとあのお店の前で昼夜問わず騒ぎまわり……」
「そういうのが迷惑だって言うんだよ」
 冷たい刃のような俺の怒声が女の話を遮る。一瞬、怯え固まったように見えたようだったが、すぐに反発してきた。
「迷惑とは納得できない。ならば、誰があのような者たちに正しい道を教えるのだ!」
「お前、自分が世の中を変えられるとでも思ってるのか?」
 押しつけがましい主張に嫌気がさし、冷静に、そして自分ですら答えられないような冷酷な質問を叩きつける。
 彼女は面食らったようだったが、すぐさま体勢を立て直し、強がりで表情を整えながらも強気に言った。
「すぐにとは、いかないかもしれない。だが、何もしなければ変わらない。少しずつでもやっていけば、世界は変えられる」
 完全に狂信者の思想だった。塵も積もれば山となり、努力をすれば報われる。正義は勝つ。そんな感じのチープな感情論……うんざりだ。これはあの喧嘩っぱやそうなヤンキーたちでなくとも怒って当然だろう。
「お前、あのコンビニの店員の顔、見てなかっただろう。あの表情はお前もお前の言う道に迷った子羊も同格で迷惑だと思ってた顔だ。そして、お前の言う近隣住民はパトカーの空気を読まないサイレンに安眠を脅かされ、迷惑だと感じているだろう。それでもお前は自分のやってることが正しいって言えるのか?」
「う……」
 婉曲的にとはいえ自分の行動を全否定された怒りのせいか、恥辱のせいか、今にも泣き出しそうなほど顔を真っ赤にし、俺のことをにらんでいる。しかし、喉に詰まったままの言葉はなかなか出てこない。
 推測だが、こいつは説教されたことなんてほとんどないのではないだろうか。子供の頃から優等生で自慢の娘。両親の言うことに逆らったことはなく、誰もが嫌な面倒事も率先して引き受けてきた。しかも、それは単なる地位や権限からではなく、己の持つ正義感から。
 俺がやったのはそれを推測した上での土台崩し。いかに立派な城でも土台が崩れたとしたら、それは倒壊せざるを得ない。
「お前は迷惑だ。荒らしに構うものは皆荒らしって習わなかったのか?」
 追撃のセカンドワード。内に秘めるは嘲笑、そして少しばかりの悲観。
 彼女は観念したのか、自棄になったのかつかつかと俺に歩み寄ってくる。ごめんなさいと詫びるつもりだろう。正義を騙るのならそれ相応の実力が伴わなければ、ただの馬鹿だということに気付いたに違いない。
 しかし、彼女の行動はいささか常軌を逸したものだった。まず、どう考えても距離が近い。低い背をごまかすために背伸びまでして俺の顔を上目使いで睨んでいた。
「うぅ……お前さっきから、人のことをお前お前って馴れ馴れしいぞ。私にはちゃんとした名前がある。お前ごとき悲観主義者には名乗ってやらないがな! すぐに諦めるな、このたわけが!」
「な……」
 あまりに幼稚な逆ギレに言葉を失う。少女は顔を真っ赤に染め、眼のふちには今にも泣き出さんばかりに涙を浮かべていたが、決して泣き言は言わなかった。かくいう俺はというと、どうにもならない現実を突き付け、困らせていただけだ。勝利の愉悦が一撃で打ち砕かれた。
「こういう世の中だと悲観してばかりいるだけでは、どうしようもないではないか。せめて自分の出来ることをしたいと思うのは迷惑なのか? 誰だって、なんの原因もなく荒れたりはしないだろう? 私は変えたいのだ。みんなが生きやすい世界に。だから、だからッ……」
 怒りから、悔しさから俺の胸板を殴り続ける女。大粒の涙をこぼしながら、子供のように泣き続ける。なぜ、こんなにも他人のために努力する必要があるんだ。世の中にはクズばかり。腐って当然の不良品ばかりではないか。それなのに、こいつときたらこんなに感情を露わにして。
 気づいたら、彼女は俺の胸に顔をうずめていた。卑怯だと思った。
 膝をついた俺と泣き続ける女。身動きの取れないまま、けたたましいサイレンの音が聞こえてきた。次第に音は光を伴うようになり、車のヘッドライトが不必要なまでに俺と彼女を浮かび上がらせる。
 ひどくあわてた様子で警察が飛び降りてくる。住宅街に潜む凶悪な殺人犯でも見つけたかのような急ぎよう。
 最悪だ。あの選択の時、おとなしく逃げていればこんなことにならなかったろうに。もしくは事情聴取でも何でも受ければよかった。現行犯逮捕される様を思い浮かべる。罪状は婦女暴行、それとも敵前逃亡か?
「お嬢ッ! こんなところにいたんですか! むっ、なんだこの男は! キ、貴様まさか……!?」
 やたらと感嘆符の多いこの警官は最初に俺のことを無視した。どうやら、探していたのは俺ではなくこの女の方で、しかも顔見知りのようだ。女は泣いてるところを見られまいと、ごしごしと俺の服で顔を拭い、言った。
「佐藤巡査、御苦労。私のことなら心配ないし、この男は事件に巻き込まれそうになった私を助けてくれた恩人だ。口は悪いが丁重に扱ってくれ」
「はッ! 仰せのままに」
 なんだか、知り合いというよりも姫とその下僕のようだ。そんな風に考えているうちに、もう一人の年配の警部のような人が助手席から降りてくる。
「君、災難だったな。高校生のようだし、家まで送ろう。君、名前は?」
 重く、厳格な声に少し気圧されるが、俺は一言「結構です。家すぐそこなんで」と断り、手をひらひらと動かす。そういうと、向こうも気をつけるんだよと一言だけ残し、女の方に向かった。こんな時間まで何をしているとか、あらぬ疑いをかけられるのではないかと思った俺は安心したというよりも気抜けする。
 そうこうしているうちに、警察たちは運転席と助手席に、女の方は犯人確保用の後部座席にためらいなく乗り込んでいった。そして、乗り際にわずかに頬をゆるめ、言った。
「無様な姿を見せたな。また会おう」
 颯爽と走り去るパトカーを見送り、今さっきまであったことを反芻する。大変な目にあった。二度と会いたくないと思う反面、彼女の笑顔が目の中から消えなかった。また会う予感がした。そして、ふと視線をアスファルトに落とすと、もっと面倒なものが落ちていた。さっきの女のものと思しき学生証だった。



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