10.syazai

 クロスは義務教育を受けたことが無い。だが、そういうものが人間の世界にあることは認知していた。太陽の日差しに苦しみながら出勤する時に、何度か赤や黒で独特な形をした鞄を背負った子供たちを目にしたことがある。その子供たちの表情は人間の大人と見比べても明らかに自由で楽しそうだった。
 学校とはどういうものなのか。これもクロスは良く知らなかった。同じ年齢の小児を同じ部屋に集め教育を行うということを辞書か何かで調べ、初めて知ったことを覚えている。教育は国の未来を見据えるために必要不可欠であり、教育が国民の三大義務ですらもあることからいかに国が教育に力を入れているかが嫌でもわかる。
 だが、自分を含むアヤカシには教育を義務付けるどころか、禁止されていた。そこから彼が推測するに、教育というものは国力に直結する問題なのだと考えた。つまり、アヤカシを一つの国と仮定すれば、教育によってアヤカシが力を得るのを人間は恐れているのだろう。
 なんとも馬鹿らしく、人間らしい考え方だと思った。アヤカシに人間を駆逐する力があれば、とっくに禁域など飛びだしている。多少知恵を付けたところで数の優位は覆らない。例え、アヤカシが強力無比な武器を手に入れたとしても、百対数十億ではお話にならないだろう。
 けれど、教育から軍事、国力といった愚かな枠組みを取り払えば、それは素晴らしいものだと思っていた。自分が禁域に閉じ込められる前は人間のことなど特に考えてもいなかったし、その時以上の生活や知恵なども欲してはいなかった。それは単純に無知だったからでもあるし、生命力に関して言えば最強に近い吸血鬼にとっては意識するようなことでは無かったからである。
 禁域に閉じ込められ、強制労働させられる中で、クロスは人間たちがいかに工夫し、知識を日常生活に役立てているかを知った。中でも彼を驚かせたのは情報端末の存在である。離れた友人とコミュニケーションをすることが出来るというのは、革新的でとても素晴らしい発明だと、仕事柄使い慣れた今でも感じている。
 知識は生活を豊かにする。この発想がなかったアヤカシたちに、それを伝えることが出来れば、つらい生活も少しは良くなるのではないだろうか。画期的な発明が出来れば、人間と同等の存在になることが出来るのではないだろうか。平和主義であるクロスはそれによって人間を支配しようなどとは考えてはいない。ただ、友好的に……上下関係などなく、誰もが仲良く暮らすことが出来ればいいと思っていた。
 しかし、人間はそのことを認めないだろう。純粋な力で上回る存在が、自分たちと同じ知識、個体数を得れば確実に自分たちを駆逐する。そんなエゴイズム。埋めることのできない種族の溝。それでも、彼は人間を嫌いに離れなかった。
 クロスは……出来るのならば、人間になりたかった。

*

 最初の授業はいろいろなトラブルがあったため、一時間だけで終了した。元より夜通しやるつもりではなかったが、フランに下着も穿かせ無いまま授業を続けさせるのも気の毒だと思い、簡単にアヤカシの歴史について話して終わることにした。それでも、人間がアヤカシにしたこと、またアヤカシを救おうとした人間がいたことを彼らに伝えることが出来たので割とクロスは満足している。
 授業が終わった後、人間に習い全員で礼をして教室代わりの空き部屋を出る。彼はすぐに雪子を連れて家に戻りたいと思ったが、先の暴力のことを踏まえて、雪子にちょっと待っているよう声をかけてから、まずフランの元に駆け寄った。優しげな表情で近付いたつもりだったが、フランの表情は明らかに怯えており、口を大きく開けて、わなわなと震えている。
「フラン、さっきはごめん。大人げなかった」
「ひっ……」
 素直に謝るも、そう簡単に恐怖は拭えない。最初に見せたやんちゃな態度から一転して、怖がりで弱い少女のそれに変わってしまっている。
 今にも悲鳴を上げそうなフラン。彼は伸ばした手を引っ込め、代わりにかけるべき言葉を探す。雪子に接するのとは違う、先生と生徒としての距離を保ちつつも、彼女を安心させる一言が必要だと思った。だが、そんな都合の良い一言がすぐ思いつくはずもなく、言葉に詰まる。
「えっと、そのフラン」
 目を伏せ、今にも泣きそうな顔をする彼女を見て、更に声をかけづらくなる。人狼のキバ、座敷わらしの優太もその様子を心配そうに見ていた。どうにかここで機転の利いた一言を言えれば、この空気も打開できるのに。わかっていても、クロスは明らかに教師としての経験が不足している。自分が助け舟を出さねばならないのに、クロス自身も助けを欲していた。
「ねえ」
 助け舟は意外なところから来た。席に着いて待っているように言った雪子が、いつの間にか自分とフランの間に割って立っている。
「クロスは怖くないよ」
「やだ、怖いもん」
 細い膝の上で両手を握りしめる少女。そして、それを励ます少女。クロスとは一言も口を利かないフランだったが、雪子とは喋ってくれるようだった。
「だったら……」
 雪子はそこで一度言葉を切り、クロスのズボンを引っ張る。耳を貸せ、そう言ってるのだと長い付き合いから彼はすぐにしゃがみ込んだ。
「今日、うちにフランちゃん呼んでもいい?」
「えっ!? 別にかまわないけど」
 そう答えたものの、雪子の意図がわからずドギマギするクロス。サキュバスも今いないし、家に来ること自体は問題ないが、来て何をするのだろう。全く想像がつかない。
 雪子はクロスが許可した直後、フランに、いやクラス全員にこう切り出した。
「ねえ、みんなはクロス先生のことよく知らないし、怖いと思ってるかもしれないけど。本当はすごく優しいんだから。だから普段のクロス先生のことも見てもらいたいの。だから、これからうちに遊びに来ない?」
「えーっ!?」
 一番初めに声をあげたのは他でもない教師のクロスだった。完全に想定外の出来事で、部屋の掃除どころか心の準備も出来てない。
 しかし、そんなクロスの動揺などお構いなしに話は進む。最初はあまり乗り気でなかったアヤカシの子供たちも雪子の話術に乗せられ、少しずつ心を開き始めていた。今にも泣きだしそうだったフランも徐々にではあるが瞳に光を取り戻しかけている。退くに退けない状況まで来ていた。この状況の収拾を図るには決断するしかない。
「わかった。元はと言えば、僕のミスだ。みんな家に来なさい。コーヒー、いやジュースくらいはご馳走するよ」
 たかだかジュース。それでも、子供たちの表情は輝く。ああ、やっぱり子供って良いな。アヤカシも人間も変わらない。こんな表情をする彼らに嫌われたくはない。クロスはそう思い、あの狭いアパートに自分を含む五人が来ることを覚悟する。
 子供たちのほぼ全員が行く気満々になった中、フランだけが簡単には首を振らず、代わりに雪子にごにょごにょと何か口にした。
「ん、うん。わかった。わたしの貸したげる」
「……サンキュ」
 ほんのり頬を染めて礼を言うフラン。何を話したのかは予想がついたが、あえてそのことには触れないようにした。全員を部屋にあげる前に、まずは女の子勢に入ってもらう必要がありそうだ。

 かくして、教師と生徒一行は教師であるクロスのアパートを訪れた。第一声は汚い、古い、暗いなど子供らしい直球ばかりだったが、自分でもそれはわかっているので愛想笑いだけで済ます。
 さっき考えていた通り、女の子の事情があるので、先に女性陣二人に部屋に入ってもらった。何故か入れて貰えなかった男の子二人は不思議そうな顔をしたが、クロスは一言。「レディの着替えは覗いちゃ駄目なんだよ」と子供に言っていいのかわからないようなことを口にする。
「ほら、フランちゃんはやく」
「やだよ、こんなひらひらしたの」
 嫌がるフランの声と楽しそうにする雪子の声。合間に聞こえる衣擦れの音。声こそ幼いが、夜の街の空気に似てるなとクロスは不埒なことを考えていた。
「クロスー。もういいよー」
 ドアノブのイカレたドア越しに聞こえてくる雪子の声。クロスはキバと優太にもう大丈夫だと告げ、自室の敷居をまたぐ。見慣れたはずの部屋だが、真ん中に二人少女が立っていると、何だか二児の親になった様な気がして少し嬉しくなった。しかも、フランは濡れてしまった服から雪子の服に着替えさせられ、ボーイッシュな格好からドレスとまでは言わないが可愛らしい白のワンピース姿にさせられている。無骨なボルトにはブルーのリボンが巻かれ、それ自体がアクセサリーのように見えた。
「じろじろ見んな、ばか」
「か、かわいいぜ……」
 羞恥から顔を赤らめるフラン。つい本音が出てしまったクロスをじっと見つめる男の子たち二人。自分がとんでもないことを口走っていたことに気付いたクロスはいろいろと言い訳しようとするが、いくら子供たちの前とはいえ弁解する余地などあるわけがなかった。
「ねえ、先生」
「な、なんだい優太」
 射抜くような視線でクロスの目を見つめる優太に思わず、変な声を出してしまう。明らかに怪しんでいる。違う、僕は少女趣味でもないし、ロリコンでもと危うく口走ってしまいそうになるが、越えてはならない一線だけは何とか大人の理性で押しとどめた。
「なんで、さっき僕たちは入っちゃだめだったの?」
「え、それは……」
 優太の一言でクロスは自分が決定的なミスを犯していたことに気付く。そうか、この子たちにはまだ男女の違いが良く分かっていない。別に気にせず、自分だけ残って全員入れていればよかったのだ。いや、むしろそこを逆手にとって自分も部屋に入っちゃえば……おっと、さすがに他家の子供にまで手を出してはまずい。
「じゃなくて……、ほら女の子の着替えだったし」
「なんで女の子の着替えは見ちゃだめなの?」
「おれ、そんなのきにしない」
 これは、アヤカシだから知らないことなのだろうか。それとも、人間の子供たちでもこのくらいの年代だとそういうことにはあまり関心を持たないのだろうか。どっちにしても、教育は必要だろう。このまま、獣のようにTPOを弁えない子供たちに育ってもらっては困る。
「わかった。説明しよう。僕の部屋でジュースを飲みながら二時間目。歴史よりも身近なことだから、みんなちゃんと聞いてよね」
 素直に頷く子供たち。予期せぬことで、性の授業をする羽目になってしまった。正直気が進まないというか、色々と順序に問題がある気がするがいつかはしなければならない授業だし。
 クロスはとにかくサキュバスが戻って来る前にこの場を乗り切ること、それだけを考えていた。これこそが致命的失策だったことに愚かな吸血鬼は気づくはずもない。

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