11.seikyouiku

 人間をここまで進化させたのは何が原因か。自然環境の変化、大脳の大きさ、戦争による不可欠性。人間たちの中では色々な要因が挙げられているが、アヤカシであるクロスは純粋に『時間の概念』こそが人間を今の基準まで押し上げたと考えていた。
 アヤカシの中にも変り者はいたが、それはあくまでも人間と比べれば些細なことに過ぎず、大筋の道からぶれる者は今まで見たことが無い。彼らの中では生活レベルの向上を考える者もいなかったし、他種族と交流を持とうという努力をする者もいなかったのである。
 特に吸血鬼はその比類なき生命力から生命の危機に瀕することはほぼあり得ないことだったし、人間から見れば永遠に近い寿命を有しているので、時間の概念すらも昼と夜の違い程度にしか気にしていなかった。
 だが、クロスが数多の人間に触れていくうちに、種族の中での考え方は如何に無駄で何も考えていなかったか思い知らされた。人間はすなわち寿命という制限に縛られていた故に、全ての無駄を省いた効率性と極端な非効率性に価値を見出すようになったのである。
 時間の概念。限られた時をどのようにして豊かに生きるか。クロス自身もそんなことは考えたことが無かった。生きることだけを考え、その一日を過ごす。人間で言えば生まれた瞬間から余生に浸っているようなものである。
 彼は他のアヤカシが変わらず今を生きていることに対して疑問を抱いていた。しかし、変えようとも百年、千年と続いた習慣……伝統と言い換えることも出来るものを簡単に変えることは出来ない。
 ならば、まだ生まれて間もないアヤカシにそのことを教えれば、アヤカシは今よりもっと楽しく進化することが出来るのではないか。生存率、発生率の大きく下がったアヤカシの未来を築くことが出来るのではないか。そのことにクロスは人間で言う『生き甲斐』を見出したのである。

*

 アヤカシの未来を考えて……などという大志は自分自身にとって無謀過ぎたのではないかとクロスは考えていた。後悔していると言い換えてもいい。それほどまでに彼は追い詰められていた。
「どうして女の子の着替えを見ちゃ駄目なの?」
 幼いアヤカシの純粋な疑問。教師として教えないわけにはいかないと知りつつも、それを教えていいのかどうか彼には分らなかった。かといって、わからないと子供たちの好奇心を無下にするのも気が引ける。元々口下手なクロスが体の良い断り文句など使えるはずもない。
 慣れた自室、普段使っていなかったクッションやら座布団やらを子供たちに渡し、一人用の小さなテーブルに無理矢理四人を座らせる。幼い四人の視線が注がれる中、クロスはごほんとわざとらしい咳をした。
「えーと、まずはめしべとおしべの話から……」
「クロス、めしべとおしべってなに?」
「メシならしってる」
 しばしの沈黙。出来るだけ、核心に踏み込まないよう例え話で済まそうとしていたクロスの魂胆はものの二秒で砕かれた。植物の交配やら生殖方法について説明したところで、齢十にも満たないこの子たちにはまだ難し過ぎる。
「ごめん、今のなし。じゃあさ、例えば今ここで僕がフランちゃんの服を無理矢理脱がせて乱暴したとしたらどうする?」
 小さく悲鳴をあげ、両肩を抱えるフラン。例えだと説明したとしても、前科のあるクロスは信用してもらえなかった。乱暴するとかそういう例えが不要だったのだと今になって気づくが、今更どうしようもない。
「先生、フランちゃんが何か悪い事でもしたの?」
「いや、してないけど……」
「ケンカは駄目だよ」
 優太の子供らしい疑問がクロスをうろたえさせ、雪子の真面目な答えがそこに追い打ちを加える。もう心が折れそうだと内心思ったが、ここで自分が教師の仕事を放棄したら永遠にこの子たちに信用してもらえない気がしたので、何とか平静を装った。
「そうだね。ケンカや暴力は良くない。フランを例えに出したのも良くなかった」
 未だに震えるフランを雪子が母親のように頭を撫でて慰めている。我が娘ながら、なんてよくできた子供だろう。そんな微笑ましい場面でこれ以上、性の授業をするべきか悩んだがここはクロスの教師としての面目を保つべく続行することにした。
「例えを変えよう。僕が今ここで服を脱いで裸になったらどう思う?」
 なかなか答えようとしない子供たちの中、ワーウルフのファングを指差すクロス。ファングは一瞬考えるような素振りを見せたが、すぐに答えた。
「べつにいいんじゃね」
 予想通り全然考えて無かった。恐らくだが、ファングに全裸になれと言えばすぐに服を脱いでくれるだろう。クロスは彼を指名したこと自体が間違いだったと思い、今度はフランに同じ質問を投げかける。フランの返答はファングの答えよりも素早く、短かった。
「キモい」
 鋭く尖った言葉がクロスの胸に刺さる。子供の無垢な言葉は予想してなおクロスの心に深い傷を負わせた。だが、ファングの答えよりははるかに的を射た答えだった。
「うぅ……効いた。マジな話、もう死にたい。フラン。大体正解なんだけど、なんで気持ち悪いと思ったのかな」
「え、そんなのわかんないよ」
 フランはクロスと視線を逸らし、代わりに雪子へと助けを求める。雪子は追及され泣きそうになっているフランの頭を抱えてから、クロスの方を向いて言った。
「クロスが裸になったら、ちょっとイヤ。だって、クロスの裸知ってるの、雪だけだもん」
「雪子……」
 嬉しいけど違う。なんか違う。そう言いたいがそこは何とか喉元までで抑える。しかし、雪子が続けようとした話はさすがに止めざるを得なかった。主にクロスの下半身事情についての話だったからだ。
「雪、それは駄目だよ。女の子はそういうこと大きな声で話したら駄目だって」
「えー、なんで? だってクロスの足の間には雪には無いぶらぶらしたのが……」
 恥ずかしげも無く、自らの股間の紳士の話をしようとする我が娘の口を手のひらで覆い、空いた手で冷や汗を拭うクロス。だが、その慌て振りはむしろ他の子供たちの興味をそそる結果になってしまった。
「せんせー、おれにもあるぜ」
「僕もー」
 自慢げに、かつ惜しむことなくズボンを下ろす優太とファングを、クロスが抱きかかえるようにして止める。何なのかよくわからず困惑する男の子二人、そしていきなり男の子に抱きついた吸血鬼を白い目で見る女の子二人。人間の雪子も人間界の常識を知らないのでその点においてアヤカシと変わり無かった。
 全力で脱ごうとする二人のアヤカシを何とか止めたクロスは息を乱しながら、立ち上がって言った。
「はぁ……はぁ……わかった。もう、まどろっこしい話はやめよう。まず、君たち。服は脱がなくていい。むしろ脱ぐな。全裸禁止。授業中は服を着てること。いいね?」
 はーいと気のない返事が狭い部屋内に響き渡る。まずは知識より常識を身につけて貰うことが先決だとクロスは思った。この一件に関しても、初めはルール、ないしマナーとして教えた方が彼らには有効だろう。性云々に関することは後から教えればいい。
「話が脱線したけど、なんで女の子の着替えを見ちゃいけないかだったね。それはマナーだからだよ。女の子が男の子の着替えを覗くのもダメだよ。マナーだからね」
 全てマナーで片づけようとしたクロスだったが、それで子供たちが納得いくはずもなく、次々と不平が舞い起こった。中でも雪子のブーイングは同じ生活をしているだけにより厳しく切りこんで来る。
「えー、でもクロスはいつも雪の裸見てるよ」
「お風呂は良いんだよ。服着たままお風呂に入ったら、服が濡れちゃうから」
 それで納得してくれるかと思ったが、雪子は意外と頑固だった。子供だと思って適当に接すると痛い目にあうのだということをクロスは今更知る。
「なんで着替えは見ちゃ駄目なのに、お風呂はいいの!?」
「ぐっ……」
 雪子の強い語調に気圧される吸血鬼。なんとも情けなく、切ない光景だろうか。二の句が継げず、身構えていたクロスだったがついに折れた。がっくりとうなだれ、観念したように告白した。
「みんなごめん。性に関する話ってのは君たちみたいな小さい子にはすごく刺激的な話だから、出来るだけオブラートに包んで話そうと思ったんだけど、僕には無理みたいだ。正直に話そう。なんで女の子の着替えを見ちゃ駄目なのか。それは主に男の本能に起因する」
 すっかり勢いを失くし、諦めかけたクロスだったが、自分たちと真剣に向き合ってくれたことを子供たちは感覚的に理解していた。淀みの無い瞳はボロボロのクロスに集中し、耳をそばだてている。
「男の子は本能的に女の子を好きになるように出来てる。これはなんでって言われても答えられない。そういうものなんだ。僕もそうだし、ファングもそう。今はそんなこと無いって思っても、いつかは女の子と仲良くなりたいって思うはずだよ」
「雪もクロスのこと好きだよ」
 雪子にとってはフォローなのかもしれないが、今のクロスにとってはあまり効果が無かった。クロスは小さくありがとうと言い、話を続ける。
「でも、普通は仲良くしたいだけじゃ終わらないんだ。歳を取るにつれて、身体が大きくなる。優太君は種族的に大きくならないかもしれないけど、普通はなるんだ。大きくなるにつれて、心も成長する。男の場合、仲良くしたいというよりはまず外見、主に身体に興味を持つようになる」
 もうすべてを話してしまおう。そう思っていたクロスだが、さすがに次の一歩を踏み出していいものか迷った。実に生々しく、官能的な世界を子供たちに教えていいものか。恐らくそれは駄目なのだろう。いつかは触れるとしても、それはまだ早すぎる。
 だが、クロスは話そうと思った。嘘をついたり、ごまかしたりするのは簡単だ。ただし、それはいつかバレる。
「女の子は成長すると身体全体に丸みを帯びて来る。胸が大きくなる。子供をつくるための準備が整ってくるんだ。それを見たり触れたりすると男は本能的に興奮する。性器が勃起する。エッチなことをしたいと思う。具体的に言うとセックスしたくなる」
 言ってしまった。こんな汚れた自分を知って、雪子はこれまで通り自分に接してくれるだろうか。臭いとか、半径十メートル以内に近づくなとか、一緒にお風呂に入りたくないとか、洗濯物は別にしてとか言われるのだろうか。だが、ここまで話した以上、最後まで話さなければならないという義務感がクロスにあった。
「でも、セックスっていうのは身体が成長しきらないうちは本当に危険だし、良くないんだ。だから、そういうことにならないように、女の子の着替えは見ないようにする。小さい頃からそういう風にしていれば、大きくなってからもマナーを守れるようになる。女の子も見られないようにしなくちゃいけないよ。むしろ女の子の方が危険なこと多いんだからね」
 しばしの無言。軽蔑の眼差しを送られ、キモいと言われても仕方ないとクロスは覚悟する。おしべとめしべも知らない子供たちにいきなりセックスなどと言ってしまったのは大人としてもアヤカシとしても最低だと知りつつ、全てを話した。本気で今すぐ土下座して、今日のことはなかったことにしてくれと謝りたい。それがクロスの本心であり、本音だった。
「クロス……先生」
 最初に口を利いたのは、フランだった。しかも、なぜかこんな最低な吸血鬼に先生まで付けて。
 フランは目を伏せ、もじもじしながらもしっかりとした口調で言葉を紡いでいく。
「あのさ、さっきはキモいって言ってごめん。言ってる事、よくわかんなかったけど……あたし、男の子の前で裸になったりしないようにする。それだけはわかった」
 続けざまにそれに同意する男の子二人。軽蔑されるとばかり思っていただけに、クロスの感動は大きかった。雪子だけが黙っていたのが気がかりだったが、あの聞き分けのない子たちがこうやって自分を認めてくれたことに目頭が熱くなり、先生で良かったと心から思った。

*

 授業が終わり、雪子以外の生徒は家路に就いた。ずっと黙っていた雪子が、生徒から娘に戻った瞬間。張りつめていた糸が切れたかのように、プツリと音を立てて雪子がクロスに飛びついた。
 驚き、ベッドに背中から倒れ込むクロス。雪子は何も言わず、クロスの胴に抱きついていた。どうしていいかわからず、たじろぐクロスだったが雪子の頬に光るものを見つけ、声を詰まらせる。
「雪……?」
「クロスっ……私、ずっとクロスと一緒にいたいの。お風呂の時も、寝る時も、ずっと」
 涙を零しながら、必死に抱きすがる雪子。きっと、さっきの話を聞いて、クロスと離れてしまうのではないかと気が気ではなかったのだろう。話を聞いている間の緊張していた面持ち、雪子は他の子供たちもいる反面、娘に戻ってしまわないようずっと我慢していたのだ。
「えっちなことしてもいいから、クロスのこと好きだから……お願い」
「雪子」
 何も言わず、頭を抱く。大泣きしている雪子を見て、胸が熱くなった。こんなに自分のことを慕ってくれている娘にどうしてそんなこと出来ようか。人間の街でよく目にする児童虐待のニュース。信じられないことだ。こんなに愛おしい娘に手を出すなど、正気では無い。
 泣きじゃくる我が子を胸に感じながら、クロスは誓う。何があっても、この身を犠牲にしてでもこの娘を守ろうと。

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