頭が重い…何もかもがぼんやりとしていて、輪郭がつかめない。
時折聞こえる声も途切れ途切れで、何を言ってるのかわからない。
ときどき、体の芯が痛む。息をすることすら受け付けなくて、むせる。
さっきの薬で少しだけ元気になったけど、それでも全然状況が変わってないことは自分が一番よくわかってた。
今すぐにでも楽になりたい。ベッドの上に横たわって、目をつぶることは簡単なことだ。
でも…でも、もう少しだけがんばって、待ってようと思う。
きっと、もうすぐ帰ってくるから。絶対帰ってきてくれるって信じてるから。
シュウ…早く戻ってきて。あまりもちそうにないの…

「グミ、今行くよ」
俺は足を引きずりながら、一歩一歩グミの待つ家へと向かう。もう、痛みも感じない。
頭から流れる血で視界が赤く染まる。もはや血をぬぐう気力すらない。
でも、別にいい。どっちに進めばいいかわかれば関係ない。
俺はただ、匂いのする方向に進んでいけばいいんだ。足がだめになったら、這ってでも行こう。
火薬にまぎれて香る…あいつの香。自らを燃やし尽くすほどに燃え上がる生命の焔。
そんなに一人で背負い込むことないんだ。俺も、今はまだ弱いけど…ボロボロだけど…。
頼れるようにがんばるからさ。
「ぅ…」
赤い景色が白く……。おい、俺の体! もうちょっともってくれ…あと少しなんだよ。もう、目と鼻の先なんだ。こんなとこで立ち止まってる時間はないんだ よ。
俺は失血で痙攣している右腕を顔面にこすりつける。一瞬だけ視界は狭まり、また開ける。
右手に持った薬のビン。紫色の液体がほんの少しだけ入ってる。
伝説の秘薬…パワーエリクサー。これを飲んだものの傷はたちまち癒え、いかなる病も治る。もちろん俺が飲めば、今の半死人のような状態も抜け出せるだろ う。
でも、飲まない。飲めない。俺を待ってくれてる人がいるから。
俺は今にも抜け落ちそうになる薬のビンを強く握り締める。深い傷口からは大量の血が流れ出していた。
ギシ…ギシ…。一歩歩くごとに骨がきしむ。胃の奥にたまった血が逆流してくる。
吐き出すにも、飲み込むにも力が足りなくて、口の中に胃液のすっぱさと血の鉄くささが混じった味が広がった。全身が空気を取り込むことを拒絶し、道端に赤 い液体をばら撒く。
俺はしばらく、呼吸することもままならず、ひたすら吐いた。胃液の酸味が鼻をついて、涙が出た。
痛みと苦しさで血走った目に、命の薬がいやがおうにも目に写る。
(死ぬよりは少しでも飲んだほうがいいんじゃないか。ほんの少しなら、大して変わらないだろう。)
黒い俺は執拗に語りかける。白い俺はゲロの水溜りでのた打ち回ってる。
(ばれやしない。それに全部飲んじまったって、あいつはきっと助かるさ。いつもみたいにけろっとして…)
「…うるさい」
(いいのか? 死んじまうぞ? 死んだら何にもならねえだろうが。)
「これはグミのためにとってきたんだ。俺が飲むためじゃない」
(そんなにあのグミって女が大切なのか? 代わりならいくらでも…)
「うるせえっ! 俺はグミに治してもらうんだ」
痛みで絶叫していた白い俺が、突然起き上がり叫んだ。
(グミがヤバイ。吐いてる場合じゃないぞ)
「…!?」
そうだ。俺は…こんなところで死んでる場合じゃないんだ。グミが待ってる。
(走れ!)
言われなくても…わかってる! 
俺は悲鳴を上げる体に何度も鞭を入れ、走り出した。
見慣れたぼろい家が少しずつ、着実に近づいて……ようやく俺の目の前に現れた。
俺は空いた手でドアノブに手をかけ、思いっきり引っ張る。鍵なんか最初からかかってない扉は、勢いよく開いた。俺は絞り出した声で言った。
「薬…薬とってきたぞ! これで…」
開けたと思った部屋の中は、重苦しい沈黙で閉ざされていた。
うつむき、部屋の隅を見つめ続ける医者。グミが待つベッドに、顔をうずめるユア。気のせいか小刻みに体が震えている。
俺は状況が飲み込めぬまま、一歩部屋の中に踏み込む。ギシと床がきしむ音に気づいたユアが顔を上げた。赤い目に、目から伝った涙の筋…涙は今もとめどなく 溢れ出していた。
「シュウさん…」
「何で、泣いてるんだよ…薬なら、ほら」
俺は手にした薬を掲げてみせる。ユアは薬には一瞥もくれず、小さく声を上げて泣き出した。
俺は、わけがわからずにグミの待つベッドへと進む。俺が熱を診たときよりもずっと顔色はよくなっていて、元気そうだった。今も静かに寝息を立てている。
グミは薬なしでも、元気になったのか? じゃあ、なんでユアが泣いてるんだ。
何だよ…どういうことなのか説明してくれよ。俺は俺が戻ってきてからも何の反応も見せない医者に声をかける。
「なぁ、グミは元気になったんだよな。ほら、息もしてるし、顔色だっていいし…」
医者はうつむいたまま、つぶやく。
「体は元気だ…ヤマは越えた。だが…」
「なんだ…俺がこんなに苦労しなくても、大丈夫だったんだ。こんなに死ぬほど怪我してまで頑張ったのに、バカみたいだな…ハハハハ」
俺は医者がこれから何を言おうとしてるかな時にせずに、自分のバカさ加減を自嘲して笑う。
別に俺がどれだけ傷つこうと、血ヘド吐こうと結果的にグミが助かればそれでいいんだ。
医者は俺の肩に手をかけて言う。
「命は助かった。だが…目を覚まさないんだ。心が耐え切れなかった。」
「目を覚まさない? 体が元気なのに目を覚まさないってどういうことだよ」
俺は医者の白衣に血をなすりつけ、詰め寄る。医者は首を振るばかりだ。
「体は生きている。だが、永遠に覚めない眠りに落ちてしまった。お前が戻ってくる10分前にな」
「嘘だ」
俺は医者の言葉を頭ごなしに否定する。自分で嘘だと決めた反面、周囲は色を失っていく。何もかも黒く、無機質に染まっていく。
この感覚は忘れない…暗い暗い絶望の淵に落ちてるんだ。
一筋の光もささない闇。
自分の存在に初めて気づいたとき、親父が目の前で死んだとき、幼馴染が死んだとき。
そのたびに俺はそこから這い上がった。失った部分は銃弾をひたすら撃ち込むことで埋めた。
そうしないと気が狂ってしまいそうだった。
恨み、憎しみだけを糧に生きてきた。今まで死ななかったのは、死ぬのが怖かったからだ。
今まであったものが、突然無くなる。代わりにひょいと現れる喪失感。
今度ばかりは這い上がれそうもない。俺は手足を失ったも同然だから。
今度ばかりは埋められそうにない。埋められないほどに大きな穴だから。
ああ、そうだったのか。俺は道化にもなりきれてない、ただの臆病者だったんだな。
突然ひざの力が抜け、ひざまずいた床がきしんだ。傷の痛みはない…でも、動けなかった。
「シュウ」
「…!?」
俺は目を見開いてベッドのほうへ首を向ける。シュウと呼び捨てにする生意気な女は一人しかいない。
「…さん」
声の主はグミじゃない。ユアだった。
「グミさんが眠ってしまうほんの少し前に、言付けられました」
俺は何も言わずに、耳を澄ますことだけに集中する。ユアの口が動いた。
「喋るのもつらいはずなのに、起き上がって私に言ったんです。『私、もう大丈夫だから。シュウが帰ってきたら、その薬はシュウにあげて。だって絶対大怪我 してる…あいつ、バカだから』と」
つらいはずなのに、泣きたいはずなのに強がるグミの姿が浮かぶ。
最後の最後まで俺はバカ扱いかよ。どうして、そんなに無理するんだよ。人のこと心配してる場合じゃないだろうが。
目頭が熱くなる。今まで泣いたことなんてなかったのに。何でこんなに熱いんだよ。
とどまることを知らない感情は、俺の頬からあごを伝って流れ落ちる。
「グミさんは最後に、『一緒いてくれてありがとう。シュウに言いたかったこと…言えなかっ…た…』って。…それから、グミさんだけ時間が止まってしまった みたいに眠ったままなんです」
ユアの声が俺の耳を貫き、心を震わせる。信じたくない…そうだ、俺はグミの顔すら見ちゃいないんだ。
「………」
俺は二度と立ち上がれないかと思ったけど、まだ足は動くようだ。
何度もよろけながら、グミのもとへ歩く。白いシーツは肩までかけられ、体を少し丸めたグミの輪郭が見える。俺でも少し大きいと思ってたベッド…グミには半 分ほどしか使われていない。
俺は枕元にひざをつき、グミの顔をのぞき見る。邪気のひとかけらも感じられない、幼い顔。大きく深い息をしている。朝に弱いグミを起こすのは俺の役目だっ たから、この顔を一番知ってる。
俺は指先でグミの頬に触れようとして、グミの頬に涙の残滓がついていることに気づいた。何度も触れようとして、結局触れなかった。触れることができなかっ た。触った瞬間粉々に砕け散る気がしたから。
「グミ、いつまで眠ってるんだよ。もう、朝だぞ」
俺は耳元でささやく。いつもの起こし方…もちろんこんなことで、目を覚ますグミじゃない。
俺は荒っぽくシーツを剥ぎ、大きな声で叫ぶ。
「おら、起きろ! あんなことやこんなことされてもいいのか!?」
いつものグミなら、シーツを奪われた時点で軽く身をすくめる。がっちりシーツを掴んで放さないこともあったが大抵はこれで起きる。まぁその場合、俺が二三 発殴られるんだけどな。
でも……シーツを奪い取っても、グミは元の体勢のまま動かなかった。
「嘘だろ…寝たフリはいい加減やめろよ。あんまりふざけてると俺だって怒るぞ」
グミは目を開けない。ただ静かに寝息を立てているだけだ。
「シュウ! グミは…」
うるさい鈍器の声だ。思えば何度もあいつに殴られた。俺はレフェルの声を無視して、グミに話しかけ続ける。
「そうだ…薬だって持ってきたんだ。飲めよ」
俺はビンのふたを開け、グミの口に押しあてる。紫色の秘薬は頬を伝って、シーツに吸いこまれた。
「シュウさん…」
「なぁ、頼むよ。口をあけてくれ、これを飲めばどんな病気も怪我も治るんだよ」
シーツにできた二つの染みは少しずつ大きくなっていく。ひとつはパワエリ、もうひとつは…俺だ。
俺はパワエリを飲ませることを諦めて、独り言をこぼした。
「ユアから聞いた……グミ、お前は俺にこれを飲めって言ったんだってな」
当然返事はない。俺はありったけの思いを乗せ、不器用な言葉を紡いでいく。
「でもさ、俺どこも怪我してないんだよ。だからさ、これはグミが飲めばいいと思う」
「疲れてるんなら休めよ。元気になるまで待つからさ」
「あ、そうか。口が開かないなら……」
俺は既に半分ほどになったパワーエリクサーを口に含む。口の中にブドウのような甘酸っぱい香りが広がった。
「シュウ!?」「シュウさん、何を!?」
俺は口に含んだ命の薬を飲み込まないように注意して……眠るグミにそっとくちづけた。
触れ合った唇は驚くほど柔らかくて、懐かしくて…すべて忘れてしまうほど愛しかった。
俺は理性を保てるうちにつながった唇と唇の間から、一滴も残さずに薬を流し込む。
ほんの数秒のことが永遠にも感じられた。何が起きても手放したくなかった。
そうか、これが…
俺は息が苦しくなるまで口づけ、ようやく唇を放す。
ギャラリーは俺が暴走したと思って固まっていた。
グミも…動かない。パワーエリクサーでもダメだったってことは……
「………間に合わなかった…ごめん」
それ以上言葉が出なくて…泣いた。それしか、償える方法はないと思ったから泣いた。涙がかれるまで泣こうと思った。
「シュウ、そんなとこでなにやってんのよ! ばか! えっち!」
「は? うおっ」
顔面にかなり強いパンチが入り、ひざだけでは支えきれなくて倒れた。
でも、何でいきなりパンチなんか…。俺は涙を拭いて、パンチが飛んできた方向を見る。
「みんなおはよう、なんだか今日はやけに明るいね」
グミが目を覚ましていた。さっきまで死んだと思ってたのに、のんきにおはようとか言ってる。
「グミ、お前…寝坊しすぎなんだよ…俺が起こしてやらないと全然…」
最後のほうは言葉にならなかった。さっき枯れるまで出したと思った涙も、まだまだ溢れてきていた。
「グミさん、助かってよかった…グミさんが死んじゃったら、わたし…わたし…」
ユアがグミのことを強く抱きしめる。あぁ、俺もぎゅっと抱きしめたい。
「ゆ、ユアさん苦しいよ…私が死んじゃうってどういうこと?」
グミは状況がわからずに照れながら聞く。ユアは抱きしめていた腕を緩めて言った。
「何にも覚えてないんですか? ついさっきまで、ひどい熱で…。シュウさんがお薬を口移ししてくれなかったら今頃は…」
「シュウが…私に…口移し? 口移しってことは……」
見る見るうちに頬が桜色に染まっていく。熱にうなされていたときよりもずっと、赤く色づいていた。
グミは唇に指を当て、一言呟く。
「ぶどう…」
パワーエリクサーの味だろう。グミは唇をかみ締めながらさらに続けた。
「はじめてだったのに……」
グミは今にも泣き出しそうなほど顔を赤くして、俺のことを見ている。そしてふいにレフェルを手に取って、こちらへと歩いてきた。おい、嘘だろ…
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 無我夢中だったんだ、それによく考えたら俺も…初めてだよ」
俺は後ずさりしながら必死で弁解するが、レフェルが無常にも振り下ろされる。スマッシュじゃないだけましだったが、両手を前に突き出して防御体制をとっ た。
「ヒール!」
全身の細胞が活性化されて、傷だらけだった体が直っていく。いつもは一度では治らないような傷も一発で癒えた。
殴られると思ってた俺は、痛みとはまったく逆の感覚に腰が抜けた。
「私のためにそんなになるまでがんばってくれたんだから……その…キスのことは…」
許してくれるのか…。
「私……」
グミはうつむいたままレフェルをおろして、ボソボソと何か言った。俺が…何とか。俺のことがかもしれない。とにかくよく聞こえなかった。
「グミ、今なんて言ったんだ?」
「…………」
「え? 聞こえないぞ」
「バカっ」
殴られた。
でもいいんだ。その言葉は俺にはもったいなすぎるんだから。


fin