13.kyuuketsu

 吸血鬼には二種類いる。それは生まれながらにして吸血鬼であったものと、別の生命として生まれ、後に吸血鬼になったものだ。それは何も人間に限ったものではないが、本能だけで生きる生物の吸血鬼の生存率が非常に低かったため、人型の吸血鬼ばかりが認知されるようになっただけである。
 クロスは後者であった。彼は人として生まれ、何らかの理由で吸血鬼に襲われ、命を落とした。クロス本人からしてみれば、それはどうしようもない不運。彼は死後、恐らく近親者の手によって棺桶に入れられ、埋葬された。
 クロスの話はそこで終わり、その先は訪れないはずだった。あったとしても、彼は生前いい男だったとか、何で彼がこんな目に……などと言った思い出話の中だけである。
 しかし、彼は目を覚ましてしまった。痛む身体、視界を埋め尽くす闇、妙に冴えわたる意識。無意識に手を動かすと半分もしない内に棺桶の蓋を叩いた。数瞬遅れで木と土の匂いが鼻腔を満たし、本能的に自分が埋められていることを理解した。
「……な」
 声を発しようとしたが、乾ききった喉から出て来たのは吃音のような音だけ。どうやら、自分がここにきてから何時間、あるいは何日か、もしかすると数か月かの時が経過していたらしい。異常な飢え。食事はおろか、水分すら摂っていないのだろう。永遠の夜のような闇の中で、自分は長い間眠っていた。であるのに、僕はまだ死んでいない。緩慢ではあるが、動くこともできる。
「た…す…」
 声が出ない。下は根元からひからび、干し肉のようになっていた。こんな状態で生きている。四角い闇の中で浮かび上がる疑問の数々。動かない身体の代わりに、回転し続ける頭脳。思考の渦に終わりはなく、ただぐるぐると今置かれている状況となぜ自分が生きているのかという疑問を行ったり来たりしていた。
 渦巻く知識の中、彼は知識の中心……自己の存在についての情報がすっぽり抜け落ちていることに気付く。それは非常に奇妙なことで、言葉や常識、下世話な政治関連のニュースまで覚えているというのに、自分が何者であるか思い出せない。まるで、生まれた瞬間からこの闇の中にいたかのように、以前の自身に対する記憶が欠落していた。
 何も思い出せない。なんなのだ、この状況は。自らに困惑し、思い出せない苛立ちを拳に乗せて力まかせに天井を叩く。続いて膝を、頭をどんどんと打ちつけた。

*

 その音に気付いたのは、たまたま墓参りに来ていた妙齢の女性。自分以外誰もいないはずの墓地に響く異音。それも、その音は地中から聞こえて来る。
『クロス・ブラッドハウンド』
 それだけが刻まれた簡素な墓標。その十字の下から、不審な音は響いていた。亡くなったのは今より数か月前。比較的新しいはずの墓標に花はなく、雨土がついて薄汚れていた。彼女は何時までも鳴りやまないその音に恐怖し、近くの村の男たちを呼ぶ。
 ちょうどその頃、近くの集落一帯は吸血鬼の噂で持ちきりだった。首に噛み傷のある死体。何の前触れも無く失踪した女性。人外の存在を肌身に感じていた男たちは大振りのシャベルに狩猟用のマスケット銃、悪魔に効くとされる銀のナイフを携えて、クロスなるものの墓標を取り囲んだ。
 ざくり、ざくりと屈強な男が握ったシャベルが土を裂き、彼の眠る棺桶へと少しずつ近づいていく。彼に辿り着くまでのわずかの間。シャベルが土を食む度に男たちの額から冷たいものが伝っていく。それはいつしか首筋、背中へと伝わり、ついにシャベルの先端が土では無い何かを抉った。
「うっ」
 シャベルを持つ男が何かに怯えるかのように後ずさりをする。その様子を見た周りの男たちは、各々手にした武器を構えシャベルの男にその場を離れるように警告した。されど、男はシャベルから手を放さずにその場に立ち尽くしている。
「早く、そこを退け!」
 暗い墓地に響く怒声。それは怒りからではなく、恐怖と焦燥によるものだ。それでも男はシャベルから手を放そうとせず、ゆっくりとぎこちない動きで首だけを動かし、仲間の姿を見る。
「目があった。今、奴がシャベルを掴んでる」
 たすけ……。それが彼の生涯最後の言葉になった。自らが掘った穴にシャベルごと引き擦り込まれ、断末魔と血飛沫があがる。遅れて発射される銃弾。硝煙が上がるよりも早く三発の銃弾が地面へと吸い込まれる。仲間の男ごと貫き、棺桶に銃痕を残す。
「仕留めたのか?」
 銃を持った男たちが地獄へと至る穴を覗き込む。最初に目に入ったのは既に事切れた仲間の姿。その奥に光る、血のように赤い眼球。血に濡れ、妖しく滑る異形の牙。気づいた時には遅すぎた。仲間の死体に気を取られた男は顔面を指の形に抉られ、音も無く土の中に堕ちる。もう一人の男は喉を食い千切られ、残った男は足首から先を切り裂かれ絶叫をあげるが、為すすべなく地中に引きずり込まれる。
 到底三人も入るわけのない小さな穴に大の大人が三人そろって吸い込まれていった。娘は声もあげられず、尻餅をついたまま後ずさる。再び静寂に包まれる墓地には狂気が満ち、夕暮れ前だというのに周囲は夜の帳が落ちたかのように暗く感じていた。
「うわあああああ! この化け物野郎!!」
 仲間の死を眼前にした最後の一人は銀のナイフを両手に地獄の底に向かって突進する。折り重なるように倒れた仲間たちは全身が干からびた抜け殻のような姿になっていた。あり得ない変死体に絶叫した男だったが、それでも手にしたナイフを放さず中の化け物と対峙する。
「来るなら来やがれ!」
 啖呵を切ったその瞬間、ついさっきまで人間だった骨と皮の中心から赤に染まった腕が飛び出し、覗き込んだ男の顔を掴む。振りかぶったナイフが赤い腕を切り裂くより早く、男の顔がトマトのように容易く握り潰された。
「嘘……っ」
 四人の男が瞬時に死体に変えられたその事実。それはすなわち、彼女自身もそうなる可能性を示唆している。逃げることも忘れ、手元の砂利を掴む娘。鋭利な小石が手のひらを切り裂くもその手は固く握られたまま、放そうとはしなかった。
 静寂、長過ぎる間。逃げるだけの時間は十分にあったはずだが、地の底に蠢く存在がそれを許さない。むせ返る血の匂いが周囲に充満し、凍てつくような寒気が娘の全身を襲う。考えたくも無い現実が、地の底から這い出て来る。血に染まった指が地面を掴み、皮袋と化した男たちを踏み台にして登って来る。ボサボサに伸びきった前髪、隠れた片目、瞳孔の開いた赤い眼が娘の姿を捕えた。
「ひっ」
 悲鳴を上げる娘を凝視したまま、ゆっくりと、それでいて絶対に逃れられないとわかる存在が地中から完全に姿を現す。血に濡れた死に装束を纏う青年。それはおぞましいながらも、この世のものではないような美しさを備えていた。余りに凄絶なその姿に囚われた彼女は声を失い、彼の瞳に釣られるように首から上だけを動かす。
 赤い青年は普通の人間のように一度頭をくしゃくしゃとやった後、唐突に笑顔を浮かべる。
「やあ、初めまして。君は誰かな?」
 にこやかに笑いかける青年。もしそれが普通の外見をしていたら、彼女はきっと好感を持っただろう。そう、全身のいたるところを血に染め、口の周りにべっとりと血が付着していなければの話だ。
「僕の名前は……えーと、思い出せないんだった。あっ、これってもしかして僕の名前かな。クロス、うん。クロスっていうんだ。君の名前はなに?」
 笑顔のまま手を伸ばし、一歩足を出す青年。その拍子に肩にぶら下がっていた男の足が落ちる。
「来ないでっ!」
 顔面蒼白で今にも失神しそうな娘を見てクロスは顔をしかめる。しかめるというよりは、変だなと思ったかのような表情だった。
「コナイデっていうのか。両親のネーミングセンスを疑うな。君は可愛いからリリィとかジェシカとかがいいと思うよ」
 化け物でありながらまるでナンパでもしているかのような言動。狂っているとしか思えない。彼女はじりじりと迫り寄って来る恐怖の象徴を両目に宿しながらも、逃げることはおろか指先一本も動かせなくなっていた。
 ついに自分の指先が届く距離まで彼が近寄って来る。濃く漂う血の匂い。彼はそっと目線を合わすように娘の高さまでしゃがみ込み、まるで恋人にするかのようにそっと耳打ちする。
「ところでさ、君は処女?」
 言葉を発した口からは今まで嗅いだ事のないような臭いが溢れだしていた。例えるなら腐敗した犬猫の死骸を錆びついた釜でさらに煮詰めたような臭い。彼女は全身をこわばらせ、何も言わなかったがその表情だけでクロスと名乗る青年は全てを理解したようだった。
「君のような可愛い人がいてくれて嬉しいよ。さっきの四人はとっても不味かったからね」
 娘の鼻腔を満たした死の香り。刹那、クロスは娘の細い首筋に鋭い犬歯を差し入れた。
「あッ!」
 感極まったかのような声をあげる娘。彼の牙が、舌が自分の血管に触れている。それはまるで彼と交わっているかのような快楽を伴って、娘の全身を震わせた。血を一滴絞り取られる毎に何度も繰り返し訪れる快楽の波。全身が性器になってしまったかのような、強烈な悦楽。娘の瞳は次第に蕩け、クロスに身体を預けるようになる。その頃には彼女の全身の細胞が絶頂に達していた。
「ああっ……」
 徐々に死にゆく身体から感覚は失われ、快楽だけが残る。指一本触れていないはずの純潔の花は濡れそぼって潤み、彼女自身も気づかないうちに失禁していた。下半身を痙攣させながら、娘は快楽に恍惚の表情を浮かべながら絶命した。
 クロスは彼女の表情をしばらく見つめた後、そっとその額にキスをする。赤いキスマークが娘の遺体に残ったのを見て満足すると、彼は石畳の上に彼女を寝かせて、胸の上で彼女の両手を組ませた。
「ごちそうさま。ありがとう、美しい人」
 彼女の姿を背に多少の未練を残しその場を立ち去ろうとしたクロス。いつしか、墓地は夕闇に染まっていた。誰もいないはずの墓地。そこでクロスは肩を叩かれる。
「クロス・ブラッドハウンド君。こりゃ困るよ。やり過ぎだ」
「どなたですか?」
 突然自分の名前を呼ばれたことに驚き、振り返ると長身の金髪男が自分に覆いかぶさるような威圧感でそこに立っていた。良く見ると闇にまぎれて他にも何人かの男女が自分を取り囲んでいる。
「自己紹介は後ほどゆっくりしよう。ようこそ闇の眷族“ヴァンパイア”の世界へ」
 恭しく礼をする大男。彼が後にクロスが百年もの間住むことになる吸血鬼の集落の長であることをこの時のクロスはまだ知らない。

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