02. mezame

 禁域。それは人の手により強制的に隔離された、地上の孤島。人はそこに立ち入ることを禁じられ、異形、妖怪の類は人の許可なく出ることを禁じられる。そ びえ立つ壁は数メートルもの厚さを誇る鋼鉄で覆われており、一見何もない星空に見えるそこにも、上級神官および各呪術精通者によって無数の結界が張り巡ら されている。
 そこに入るためには一つの例外も無く、上位種族からの許可が必要だった。また、その許可も一時的なものに限られ、外出時には通称『輪』の着用が義務付け られる。一目見ればファッションか何かに見えるであろう『輪』は両手両足と首の計五つあり、外出時に一瞬でも不審な行動を見せた場合、物理的破壊としての 高性能爆薬と呪術的破壊としての五傍星結界が組み込まれているのである。
 また、外出許可と言っても、それは即ち強制労働を意味する。人よりもはるかに優れた能力を有するアヤカシを月に何度か奴隷として働かせるのだ。その職種 はいくつかあるが、アヤカシの特性上一番多いのは肉体労働で、少数しかいない知能特化型のアヤカシは研究開発やプログラミングなどの仕事をさせられること が多い。
 話を戻そう。外出=リングの装着。これは人の決めた絶対的な規則であり、例外があってはならない。リングを付けずに外出、もとい脱走しようとしたものは 問答無用で鉛弾の雨に晒される。人の安全のため、言いかえれば脆弱な人類の保身のために必要不可欠なルールである。
 そして、人間にも似たようなルールがある。こちらは奴隷扱いのアヤカシたちよりもある意味厳格なものだ。老若男女、人種、権限問わず禁域に侵入すること を禁ず。これは人の安全のためだけでなく、アヤカシからの思想に影響されてしまったり、恋愛感情を抱いてしまったりしないようにするための、二重の防御を 意味している。
 人とアヤカシ。お互いに理性をもちながら、決して交わることのない二つの種族。互いを分かつためのルールを遵守することで、世界の安定が保たれている。 もし、それが破られることなど有ろうものなら、どちらかの種族の絶滅……確実にアヤカシが殲滅されるに違いない。

「これはヤバイ……とてつもなくヤバイ」
 真夜中、自室を前にしてクロスは頭を抱えていた。彼がこの天井のない牢獄に閉じ込められてから数百年。今よりも危機的な状況はなかったと言えるだろう。 破られてはならない掟が、この一人の赤ん坊の手によっていとも簡単に破られてしまったのだから、当然である。
「あんた、いくら血が吸いたいからってルール破ってまでこんな子供攫ってきちゃダメだろ」
 冷静に見えるサキュバスだったが、内心は穏やかなものではなかった。その証拠にいつもの威勢は何処かへ吹き飛び、先までの怒りもすっかりおさまってい る。
「いや、僕じゃない。帰ってきたら、置いてあったんだよ。とにかく、このままじゃまずい」
 クロスは片手でカゴごと赤ん坊を抱きかかえると、202号室のドアノブを空いた手でひねった。鍵はかかっていない。かけたところで人の物を盗むようなア ヤカシはいないし、出入りの手間が増すだけなので、彼はいつもそうしている。
「ちょ、ちょっとクロス」
 カゴを抱えて自室に籠ろうとするクロスの腕をサキュバスが掴む。普段の彼ならそれで十分止められるのだが、今回ばかりは状況が違った。
 彼は見た目からは想像もできない膂力でサキュバスを引きよせ、サキュバスごと自室に閉じこもったのだ。玄関にそっとカゴを置き、長いこと使っていなかっ た鍵をかける。続けてチェーンロックも忘れずにかけた。
「ふう、とりあえずこれで安心……」
 一時しのぎではあるが、これで看守が来てもすぐには見つからないはずだ。クロスは胸を撫で下ろし、鍵が壊れていないかドアノブを何度か引っ張って見る。 多少のガタは来ているようだが、最低限の鍵としての役目は果たせているようだった。
「クロス」
「ん……?」
 名前を呼ばれて振り返った瞬間、彼の頬から小気味のいい音がした。紅葉の形にじんわりと熱が広がっていく。そこまでされて、ようやく彼は気づいた。彼の 真後ろでサキュバスが真っ赤になって震えていることに。
「朔乃……さん?」
 クロスの視線が彼女の顔から次第に彼女の肢体の方に降りていく。子供向けパジャマを着ていたはずの彼女の胸元はなぜか大きく開かれており、健康的な肌と 共にまだ発達途上な胸が片方だけ覗いていた。恐らく、彼女を強く引っ張った時、ボタンいくつかはじけ飛んでしまったのだろう。
「こ、これはその不可抗力というか」
 この余計な弁解が朔乃の羞恥心を刺激したらしく、より紅潮した頬がよりいっそう赤くなる。自分自身を抱くように交差された腕は今にも爆発しそうな自分を なんとか抑えているように見える。
「こっ、この……変態ロリコン吸血鬼! あたしをこんなとこに連れ込んで乱暴しようなんて……エッチ! スケベ! ペド!」
 不名誉な名で呼ばれるたびに固く握られた拳がクロスの顔面にめり込む。他にも何か言いかけていたクロスだったが、顔面へのワンツーの後に放たれた前蹴り が股間を直撃し、悶絶して玄関に倒れた。その際、赤ん坊に後頭部が当たらなかったのは僥倖と言わざるを得ない。
「ご、誤解だ」
 泡を吹きながらも必死に弁解するクロスだったが、朔乃は恥ずかしさでそれどころではないらしく、滅多に使わないチェーンロックの解除に躍起になってい た。一刻も早くこの鬼畜の部屋から出なければ、貞操を失うとでも言うかのようだ。
「何で開かないのよ! 早くしないと犯されちゃうよ……うぅ」
 大きな目に涙まで浮かべながら、古びたチェーンと格闘するサキュバス。クロスは股間の激痛に苛まれつつも、這うようにして彼女に近づきチェーンロックに 手を伸ばす。あのボタンを押しながらじゃないと開かないんだと説明したかったのだが、痛みに奥歯を固く噛みしめていたので、話すことができなかった。
 クロスは必死に手を伸ばし鍵を開けようとするが、チェーンロックまであと少しのところで力尽きた。しかも運悪く力無く落ちた手は朔乃の腕に乗っかり、そ の瞬間、朔乃の身体がビクンと感電したように震える。
「いっ、いやーッ!!」
 絹を裂くような悲鳴。その悲痛な声は禁域全体に響き渡り、ボロアパート全体を揺らした。外界よりも圧倒的に犯罪率の少ない禁域であったからこそかもしれ ないが、すぐさま下の住人が事件に気付いて駆けあがって来る。
「どうした!? 変態でも出たのか!?」
 ドア越しに聞こえてくる声は若い男のもの。下の階に住んでいるあまのじゃくの声だと意識が朦朧としているクロスだけが気づいた。
「クロスてめえ、変態野郎。朔乃! 離れてろ。ドアを壊す」
「や、やめ……」
 消え入りそうなクロスの懇願も、錯乱状態の朔乃の声にかき消され届かない。建物全体を震わせるような体当たりが見られてはならない者がいる部屋のドアに 繰り返され、脆くなっていた木製のドアはあっという間にぶち破られた。
「朔乃、無事か!?」
「ジャスティスぅ……怖かったよぅ」
 誤解のないように言っておくが、ジャスティスというのはあまのじゃくの名前である。朔乃は大粒の涙を浮かべながら、あまのじゃくにしがみつく。その可憐 な姿とそのすぐ後ろにいる強姦魔らしいものを見て、あまのじゃくは瞬時に状況を理解した。
「俺はこう見えて嘘つきと変態がでえ嫌いなんだ!この全身下半身野郎! ぶっ殺して、憲兵に突き出してやる!」
「だから、お前ら話を聞いて……」
「うるせえ、変態。喋んじゃねえ!!」
 あまのじゃくは優しく朔乃を介抱し、無事脱出したのを見届けると、肩を怒らせ鬼の形相でクロスを見降ろした。怒り心頭、聞く耳などあるはずもない。
「いくら管理人だってやっていいことと悪いことくらいあんだろうが! 二度と悪さできないようにてめえのイチモツ切って、ケツに突っ込んでやる」
 そこまでしなくてもと思ってしまうほど残酷な処刑法を口にするあまのじゃく。その手には任侠映画よろしくの長ドスが握られている。
 一方クロスはまだ下半身のダメージが残っていた。動こうにも身体が言うことを聞かない。自分自身の性別が変わってしまうかもしれないという緊急事態なの になんという体たらくだろうか。肝心な時に役に立たないくせに、こういう時は足を引っ張る放蕩息子である。
 暗い室内。あまのじゃくの足がずずと動き、クロスのすぐ横に置かれていたカゴに当たった。揺れるカゴ、先ほどからの大騒ぎ、ただならぬ空気。あらゆる要 素が重なって、カゴの中でおとなしくしていた赤ちゃんの目がぱちりと大きく見開かれる。
「あっ」
 ほんの一瞬、言うならば目的地に着いてから、財布を忘れたことに気付いた時に似ている。サキュバスの悲鳴にも劣らない大きさで、赤ん坊が泣きだしてい た。

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